作られる美談とそれを求める心
マスコミは美談を募り、美談を作る。それを皮肉る言説は今まで散々見てきた。のみならず、自分の内部にもそうした皮肉を吐きたがる気持ちのあるのを知っている。しかし、果たしてその皮肉はなにを示しているのだろうか?
それは、美談を募り作ってしまうマスコミの動きを真剣に批判しやめさせようとしているものではないだろう。マスコミが人々の求めるものを報じる、というのは、ある点では仕方のないことである。としたら、それは寧ろ、美談を求める我々の性質に向けられているのではないだろうか。
こうした経緯で、美談に関するこの種の皮肉は宛先不明となってしまう。
美談を求める心のなにがまずいって、それが出来事に美談というあらぬ「善性」を与える、つまり情緒的にその出来事を正当化し肯定してしまいがちであるという点である。アジア太平洋戦争中のマスコミと国民は、一面では、そうした意味で協力関係にあったと言ってもいいと思う。
つまり、美談を求める心の行く先は猛烈な現状肯定であって、現状が必ずしも望ましいわけでもないのに、その心のせいで現状を歪めて認識してしまう、という事態が起こりうる。自分にとって望ましくない現状を無理やり肯定することは、それぞれの人間にとってそれぞれ不利益である。
しかし、だからといって、苦境にある人たちに、「藁にもすがるな」とは言えないだろう。それは、共感の原理が働くからであろう。
それでもなお、内面に皮肉な気持ちは消えない。この皮肉が意味するものを未だに掴み得ていない。
スポーツ選手は「プレーで夢を与えたい」と言う。しかし、プレーによって与えられる夢がどんなのであるか自分にはよくわからない。プロスポーツ選手になりたいという憧れを与えるのだろうか。人は自分の無力を自覚して「せめて祈ります」と言う。彼は敬虔な宗教徒であったか?いったい誰に何を祈っているというのだろうか。目を閉じるのは自分の無力感に対する焦燥感を鎮めるためではないのか。
いくらその場しのぎの癒しによって苦境を乗り越えたとて、待っているのはただ死ではないか。そう考えると傷ついて癒しを求める人々の心はあほらしいな、ははは、と笑えることでもない。皮肉はこうした意味でもないらしい。
2016 4 18