わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

堀茂樹・香山リカ両氏間の論争について その2 堀氏の意見の検討

当事者間の論争については、香山リカ氏が堀氏の意見の方法論を見誤っているという以上に語るべきことはないように思われる。ここでは、堀氏の意見そのものについて考えていきたい。

まず、堀氏の意見への反論として目についたものを類型化して、わかりよいツイートを例として挙げた。その上で、簡単にそれらの意見について考察した。

 

具体的他者を見ず、人間をそこまで一般化して捉えるのは傲慢である(エリート的である)
https://twitter.com/moriteppei/status/857735725046939648

 

この意見は理解しやすいものではない。あとのやり取りを追うと、単に一般化することに対する批判なのではないことがわかる。とすると、問題は「具体的他者を念頭に置く」という段階があるかないか、ということになるのだろうか。単に一般的な人間像を浮かべるだけでは、具体的な人間の考察としては精度に欠くものにならざるをえないため、それでわかったようなつもりになるのは「傲慢である」。うーん、あまり解釈に確信が持てない。

この批判は堀氏の方法論に対する直球の批判となっている。そして、それなりに有効な批判であると思われる。

 

今はまだ振り返りの段階にない。目の前のヘイトを止めることが先決
https://twitter.com/rkayama/status/857737054427291648

 

この批判はわかりやすいが、果たして振り返りの段階に至るタイミングが来るのだろうか?批判を封殺するだけの空論であるように思われる。

 

反差別に対する逆張りから差別に加担している、俯瞰したところから眺めてるだけのお客さん
https://twitter.com/illmatic_ucd/status/857620671672614912

 

反差別運動の当事者からすれば、その運動に対して意見を述べるという形で、運動に一定の関心を示している人間が運動の現場に現れないというのは、理屈に合わない話なのではないか。意見だけ述べて去っていくネット上の人物に対しては、おそらくそうした理由からこのような立場を取っているのをよく見かける。

逆張りは客観性に欠けるワードだと思うが、これも反差別運動の当事者の実感なのだろう。どのような実感であるかは知る由もない。結局、意見を述べるにせよ運動にある程度肯定的なスタンスであれば運動に参加しなければおかしいのであり、参加しないということはその運動を減速させていることに等しいということだろうか。

 

思うに、賛成、反対の軸とはまたところにあるある種の嫌悪感があって、それが運動に対する「逆張り」を産んでいるのではないだろうか。そして、運動の参加者はこうした嫌悪感についてまったく重きを置いて考えようとしないが、自分としては、特にネットの時代において重大性を孕んだ問題であると考えている。