わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

もし時代が違えば、自分はオウムに入信していたか、あるいは。

 オウムの二時間ドキュメンタリーを見て以来、かねてより気にかかっていたオウムについて、いろいろ調べてみている。元信者の懺悔録などが数多く残っており、今のところ材料には事欠かない。といっても、興味があるのはオウムをなぜ信者は信じてしまったのか、どんな教義その他が信者を信じさせたのか、という点であり、オウムの哲学に深く触れる、なんてことは、当分やるつもりはない。自分にあてはめて考えると、どうにも答えの出ないというか見えない問題が多くて、この文章ももやもやしたものになってしまっていることを予めご了承願いたい。

 

 まだいくつかの文章を読んだに過ぎないが、オウムを最終的に瓦解させたのは、サリン事件もそうであるが、1999年がつつがなく過ぎ去ったこと、つまりノストラダムスによる終末論の敗北である。詳しくは書かないが、オウムはこの終末論に依っていた部分が大きく、麻原の預言がそれにより否定されることになったためである。一方、麻原の唱えていた陰謀論に関しては、否定しさることができないという陰謀論の特質から、未だに信じている信者も多いという。

 

 オウムの元信者に高学歴の人間が多いというのは有名な話である。実際の統計を見たわけでもないのでなんとも言えないが、初期から中期に至るまで、つまりマスコミを通じて有名になるまでは、オウムとの接点は主にヨガを通してであったようである。ヨガといっても、主婦の方々が日々の疲れをどうこうとかそういった類ではなく、密教系の修行としてのヨガで、チャクラがどうとか、当時にしたってだいぶ胡散臭い類の方のヨガであった。そういったものに興味を持つ人間という時点で、だいぶ限られてくる。当時はサブカルブームであり、特にムーを代表とするオカルト系が人気を博していた時代だったらしい。オカルトと知性の関係は不明であるが、自己啓発系ともまた違って、内向的な人間の方がはまる数はかなり多かっただろうから、少なくとも知的好奇心が高い人間だった、ということは言えるかもしれない。
 また、元あった興味のほかに、大学受験やその後において、人生というものにえらく迷っていた、ということを入信のきっかけとして挙げる人も多い。これは今の自分にもよくよくあてはまることである。
 加えて、これは僕が勝手に推測していることであるが、そもそもが周囲の人間を馬鹿にしており、半ば唯我独尊状態にあったのを、尊師たる人物、つまり自分を凌駕する人間と出会ったことで、完全に尊師を信じる状態になってしまったのかもしれない。狂信状態に至っては、なおさら周囲の声に傾ける耳などないのだから、洗脳が解けるはずもない。

 

 さて、入口はヨガ等であった。入ってからは、精神的、肉体的、思想的に洗脳を受けるわけだが、高学歴であったと言う人たちの懺悔録を見る限りでは、その後麻原に傾倒していった理由は、自己愛の肥大にあったのでないか、とする人が多い。つまり、プライドをくすぐられ、自分を特別な存在として扱ってくれることに快感を感じ、また麻原の地位にあやかり、麻原にとって少しでも特別な存在であることで、自分もまた特別な存在であろうとした、ということらしい。

 

 現状を鑑みるに、ノストラダムスの件はともかくとして、受験期におけるあるあるの迷妄無明の状態に陥っていることはこれ明白であり、宗教をふっかけられたらそちらによろめいてしまうかもしれない。だからこそ僕はあらゆる前提をなくすよう努力してきた=無条件に何かを信じないように努めてきたのであるし、逆に宗教というものに興味を持ったのである。
 また、オカルト系にも興味がある。中野ブロードウェイまんだらけで安く買った胡散臭い本たちは、未だに愛読書であるし。それこそ独学でヨガをやろうと試みて3日坊主だったこともあるぐらいだし、なんかの拍子でヨガ教室に通ったりしかねない。どちらかというとこっちのルートの方が危ない。加えて、ヨガは論理以外の部分によって行うものであり、論理を絶対視していない現状というのもまた危険要素である。
 更には、あらゆる前提をなくした結果かどうか知らないが、世間の認識と僕の認識に大きなずれがいくつも生じており、世間と僕はかなり遊離した状態である。これは、悪くすれば他人を馬鹿にし、軽視するということにつながりかねない。危ない。
 自己愛の肥大というのにもあてはまる節がある。自己愛の問題はなかなか自覚しにくく、僕も自覚できないのであるが、だいたいにおいて創作をする人間というのは、自己愛が高いそうである。周囲と協調しないのも自己愛が高いおかげ(せい)であるし、中高を通して一時期激しい自己否定に陥っていたが、それもいま考えれば激しい自己愛の裏返しとも取れる。気持ちの悪い話だが、状況証拠はそれなりに揃っている。

 

 どこをどう見たってこれでは僕はかなり危なっかしい。新興宗教についてはさわるな危険が鉄則であるが、それでは不可避的にさわってしまった時が大問題であり、必然的に少しずつさわらざるを得なくなる。加減を間違えると大変である。その点前提の破棄というのに僕はかなりの効果を期待しているが、いかんせん実例がないため効果のほどは不明であるし、それが宗教に利用されてしまえば目もあてられない。まったく光明がないが、とりあえず気をつけるしかない。
 方策として考えているのは、極端にならない、ということである。僕は思いこみの激しい人間であり、なおかつ柔軟性も皆無であるので、ひとつの方向に傾きがちである。柔軟性については光明がみえないので、更新のスピードをあげるしかないのかな、とぼんやりと思っている。
 また、これは別の話だが、どうやら僕は他人にけっこうな負の影響を与えているらしい。別にやりたくてやっているわけでもないし、まったく黙ってしまう以外に自分で制御できる類のものでもないのだが、一種洗脳とも呼ぶべき影響を与えているようである。それで僕を崇拝するようになるわけでもなければ、言うことを聞くわけでもないので、僕に特にメリットはない。ただ、無気力という病原菌に感染してしまうのである。その点、僕は本当に人類の癌細胞とも呼ぶべき存在である。酔狂で書いているようだがわりかし真剣にそう思うこともある。だからって思ったってどうしようもないので、やはりとりあえず良い癌細胞になるよう努めるしかないのであるが。

 

2015 3 26