わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

幻想小説「現状」 第六話

 水槽に身を沈めていて、ふと脇の方を見やると、いつのまにやら脇毛がけっこう生えていた。かつては、両脇に一本ずつ、ぴょいとやる気なく生えていて、あとは産毛程度だったにも関わらず。まあ脇毛の話はどうでもよいのだが、今年も誕生日が近い。誕生日を、一応家族は祝ってくれるのだが、しばしば、どうして祝っているのだろうかと、他人事に感じてしまう。

 

 果たして祝福されるに値する人生だったろうか?誕生を祝うのは存在の肯定なんだろうと思うが、とてもじゃないが自分を肯定する気にはならない。こんなんに育ってしまって、なりばかり大きくなって(別に身長は高くないが)、自分でさえ閉口してしまう。このような自己否定は強い自己肯定の裏返しなんだよ、とどっかに書いてあった気もしなくもないが、少なくとも僕から見える世界では自分を肯定するなどもってのほか、死罪に相当する。肯定できるとしても、精々音楽を作っている時くらいしかない。音楽をやらんと死んでしまうのは多分そのためだ。

 

 欲望は最小の倫理観である、という、面白い説を聞いた。僕としては全く逆のことを考えているので、そんな見方もあるのかと驚いた次第であるが、やはりあまり腑に落ちない。寧ろ、倫理観も欲望に由来するものである、というのが、僕の思うところである。
 簡単な言葉にすれば、倫理観は「すべき」であり、欲望は「したい」である。そして、人間の行動は「すべき」か「したい」によって動機づけられ、実行されるのではないか。これが今回の議論の前提であるが、無為な行動、あるいは不随意の行動は除くとすれば、この前提は割かし良好であるように思っている。
 さて、人はなぜ「すべき」だと思うのか。倫理観がそう命じるからである。では、その人はなぜ倫理観に従うのだろうか。あるいは、倫理観はなぜそのように命じるのだろうか。
 人が倫理観に従うのは、従わなくてはならないと思っているからである。従わなくてはならないと思っていることに理由はない。そこにあるのは、いわば盲信である。人はなぜ盲信するのか。おいそれと結論は出ないが、盲信という行為に、(それが完全であれば)苦痛が伴わないのは確かである。そして、「すべき」は欲望との対立において、従う際に苦痛を生じさせるが(行動のブレーキとも言える)、「したい」にはブレーキ作用はないのではないか。これは、「したい」が「すべき」以前に存在するという従来の考え方に基づいた議論であり、逆に、この考え方が根底にある限りは、盲信は「すべき」でなく「したい」に属するものであると考えられる。盲信が、他に選択肢をなくすことで安心感を得たかったとか、よりかかるものがほしかったとか、欲望由来のものであるとするのは、実際よくある話である。
 倫理観が命じることがらは、倫理観の道筋に沿ったものである。倫理観はどのようにして醸成されていくのか。親からの教育、学校での教育、友人関係、上下関係、(ほとんど)すべては他人との関係の中で形作られていくのではないか(ここでいう他人とは、集団も含めた広い意味での他人である。)。とすれば、倫理観が他人との関係に焦点を当てたものであるのも当然である。他人との関係をうまくいかせるための決まりごとが倫理観であるとすれば、倫理観は他人との関係をうまくいかせるためにあるといえる。義務感で他人との付き合いを良好にする人間はいない。付き合いが良好になる分には苦痛は発生しないのである。とすれば、これもまた「したい」に由来するものであり、他人とうまく付き合いたいから、倫理観が存在するのである。

 

 以上のことから、倫理観も欲望に由来することが示されたように思う。なんでこんな話を長々としたのかというと、冒頭の鬱鬱とした自己否定の文章は、自分の倫理観をもとに、倫理的でない自分の生活を断罪することによって書かれたものであるからである。無用な自己嫌悪に陥らないよう、この一年、自分の中の「すべき」思考を取り払うよう努力してきたが、やはりまだまだ難しいな、と思う今日この頃である。

 


*前回の投稿からしばらく考えて、この世界は論理的に間違っていることが多々あるが、それは論理の方が間違っている、というか不十分なのである、論理とは人間が勝手に使っている道具であり、よしんば万人に共通であるとしても、自然の摂理までをも貫き世界を完全に分析しきることが可能であるとは限らないのだから、という気がしてきて、自分で考えつめるのもあまりよくないのではないか、と思い始めていたのであるが、フタを開けてみればこのザマである。この先どうするのだろうか。

 

2015 4 11