わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

重い書き物(3)

 生きている以上、どうしようもないことというのは必ずあるらしい。幼児的全能感という言葉がある通り、幼いころは「何事も自分の思い通りにできる」という錯覚を抱きがちであるそうだ。それが、大人びるにつれて、「どうにもならない、どうにもできない」と感じるものごとが増えてくる。天災もその一であるし、学問だって、どの学問も最高知のレベルに達するなどということは、現在においてはおそらく大天才でも不可能である。必ずどれかは諦めなくてはならない。

 

 諦めは生きるにおいて不可避なプロセスである。だからといって、諦めを「美の感覚」にあてはめ、それを美化する行為というのは、欺瞞甚だしいと思う。

 

 どうにもならないことは、どうにもならないという事実を受け容れるしかない。これが諦めである。しかし、幼児的全能感から言って、「どうにもならない」というのは敗北であり、ひどく辛い。受け容れるにおいて、辛いものを受け容れるのは心苦しい。だから、それが美しいものであると、自らを錯覚せしむるのである。敗北の美化についても、同様のことが言える。

 

 美化は、受け容れるという行為を易化するばかりか、それを「善の感覚」の一部である「美の感覚」に位置付けることによって、それを推進する。人々は積極的にあらゆることを諦め、なおかつそれがまるで麗しいことであるかのように感じ、吹聴する。諦めという行為の固定化である。固定化は更新を妨げる。同様にして、人々は現実生活に都合の良い枠組みを、受け容れるという行為によって自分の中に精製してゆく。美化のプロセスは自分の中に枠組みを作るプロセスと言ってよい。

 

 その欺瞞に対する恐怖が僕の中にある。それは幼児的全能感の成せる業と言っても良い。自分の中の枠組みを認識し、いかに自分の認識が「善の感覚」というわけのわからぬものに支配されているか見つめるべきだ、と僕は言う。自分の恐怖から他人に語りかけ、他人に影響を与えんとするのである。これは、曲を作っても、台本を書いても同じことである。この、いわば「影響欲」とは、いったい如何なる現象なのだろうか。(続く)

 

2015 2 25