わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

重い書き物(2)

 先日のようなことを、そもそも僕はなぜ考え始めたのだろうか。

 僕は、他人に対してえも言われぬ嫌悪感を感じることがある。そして、それは自分に対しても同様であった。
 それは何かと言うと、その人の行為や発言がある「善の感覚」に彩られているときである。それは特定のものではない。たとえば、体育会系のそれであったり、インテリのそれであったり。自己陶酔にも近いかもしれない。
 男らしいのがいいんだ!と言われれば、暑苦しいのはいやだ、と思い、勉強しなくちゃ!と言われれば、なんのための勉強だ、と思い、未来のためだ!と言われれば、どうせ死ぬし、と思い、ようするに天邪鬼なのだ。
 「善の感覚」に彩られた発言には、2つの表れ方がある。ひとつが、上に書いたような断定形を伴うパターン。これはまだわかりやすい。
 問題は、発言のうちに何か強い断定が働いているパターン。こっちだと、表面上には断定が出てこないのでわかりにくく、ただ不快感だけが働く。具体例を出すのは難しいが、戦争はいけない、という発言さえも、「生命の尊重を良いものとする」という前提があるわけだし、なまけるのはいけない、という発言だって、「何かのために盲目的に頑張るのが良い」と言っているように聞こえる。どれだって大差ない。「善の感覚」に彩られているという点では、他人を批判しようと所詮同じ土俵の上にあるに過ぎぬ。

 しかし、そんなこと言ったら、どんな発言や行動だってなんらかの価値観に基づいているのだから、「善の感覚」に彩られない言動なんてあるわけないじゃないか、と思うだろう。それこそ、これを書いているお前だって、たとえば哲学的な思考が素晴らしいものであるとか、考えてるんじゃないか、と。
 ごもっともである。少し方向修正というか、より厳密にことを見なくちゃいけない。
 どうやら、僕は「自分に対して疑いのない言動」、つまり自己批判なき言動というのが嫌なようである。どうしてなのかはよく分からないが、ひょっとすると最近考えていることに関係があるのかもしれない。

 何かというと、実は僕がやっている哲学まがいの考え事というのは、どうやら僕のサボりぐせに大変関係があるのではないか、という。
 サボりとは、結局強要されてもやりたくないことはやらないっ!、という態度である。それを正当化しよう、とかセコいことを考えると、そもそもなぜそのことをしなくちゃならないのか、というところに辿り着くのは自然の成り行きである。それが長じて、他人からなにかを強要された!と感じたときに、自然とそれに不快感を感じるようになったのではないか。はっきり言って狭隘極まりない心の狭さだが、今から小学生の僕に説教するわけにも行かず。
 強要というのは、つまり断定と、共感を迫る、というのが合わさった作用である。男らしいのがいいんだ。いいだろ?哲学するのがいいんだ。いいだろ?大人になるのがいいんだ。いいだろ?子どものままの無邪気なこころを持つのがいいんだ。いいだろ?こんなことを言われたら、「ちがあああああああああああああああううう!」と、赤ん坊のように聞かん坊になる。今更洒落にもならないが、これがだいぶ僕の行動原理である。

 動機の説明が長くなりすぎたようだ。(1)で述べたもののスケールを落として、個人にあてはめた時の話をしたかったのだけど、それはまた次回に譲ろうかと思う。

 

2015 1 31