わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

重い書き物(4)

 前回「影響欲」についての話を振って終わってしまったが、今のところとくに見解はない。且つ、僕の中にそのような欲が強くあるとも思われない。あるとすれば、他人を自分に近づけて、自分の居心地を少しでもマシにしようという儚い努力であって、それをせんとする動機を「影響欲」と呼ぶに呼べないこともないが、それにしてはあまりに儚過ぎて、なんか馬鹿らしいというか、そんな大層なもんでもないよ、という感じがして、しっくりこない。

 

 ということで、「影響欲」の話はここまでにして、今回は、前回の投稿から大変時間が経ってしまったこと、途中によくわからない悪態が挟まっていることなどから、改めて内容をまとめたうえで、ひとまずこのシリーズを完結させたいと思う。

 

 と思ったが、めっちゃ長くなってしまったので、あらすじを最初に書きます。詳しくはそのあと続く文章をご覧になってください。もちろんご覧にならなくて一向にかまいません。以下あらすじ。

 

 人や共同体には、認識の際に用いる枠組みがある。個人のものを「」、集団のものを『』と表す。これらは恣意的で、硬度があり、硬すぎると衝突や弾圧を生む。
 個人において言えば、たとえば社会人になる、というのはその好例で、自分の飛び出る社会の『』を、ほとんど無条件降伏的に受け入れる、というプロセスがある。しかしこの際どうしても衝突が生じるので、それを押し切るために「欺瞞」が生れる。これがキモチワルクて僕は時折悪態をつく。御見苦しくてごめんなさい。
 話を拡大すれば、現代は多様化を目指す時代であると言われる。とともに、グローバル化著しい時代でもある。強固な『』が存在したままグローバル化を行えば、衝突ののち『』が邪知暴虐の限りを尽くし少数派の『』や「」を迫害することは目に見えていて、これでは多様化した世界など望むべくもない。ということで、少しは認識の枠組みということについて、せめて個人レベルからでも考えてみてはどうか、卒業はいいタイミングだと思うよ、という(おせっかいな)お話。

 

 まずもって、よくわからない、認識以前の現実というものがある。これを認識することで、人それぞれ、共同体それぞれの現実になる。この認識の際に用いられるのが枠組み(フレーム)であり、個人のものを「」、共同体のものを『』と表す。認識以前の現実が実在するかはここでは問題にしない。ただ、同じものを指しているはずなのに、その解釈が個人や共同体によって異なり、なおかつそれに関する会話がある程度成り立ってしまう、という現象がある、とするに留めておく。つまり、人は「認識以前の現実というものがある」と認識している、という前提で、話を進めて行きたい。
 「」や『』は(完全にとは言わないまでも)恣意的なものであり、それらには硬度がある。柔軟な枠組みであれば他の枠組みによる解釈を許容できるが、硬度が高まると許容できず、衝突に至る。宗教や信念などは硬度の高い枠組みの最たるものである。

 

 一般に言われる「社会化」とは、おのおのの「」を『』に近づける、あるいはまったく同一化してしまうプロセスのことである。この社会という言葉は、社会化が自分の所属する共同体に限った話であることから、世間という言葉で置き換えたほうがより正確だろうが、世間化という言葉は一般的でないので、社会化という言葉を使う(社会化された人間を「世間人」と呼んだりもするのだが)。あるいは、社会以下のもっと狭い共同体の『』に寄せることもあるから、それこそ「世間化」と呼べるのかもしれない。
 この「社会化」ないし「世間化」のなかで、つまり、自分の「」を『』に近づける中で、抵抗が生れることがある。というか、あまりに柔軟過ぎる「」ではおそらく人間は生きていけないので、「」にもある程度の硬度があり、よって程度の差はあれど「社会化」において抵抗は生れるものなのだと思う。でもって、その抵抗をごまかす、というか押し切るために、『』を(かなり盲目的に)信じる、ということが起こる。硬度を確保するためである。しかし、その枠組みはもともと持っていた枠組みではないので、それを突然信じるというのはかなり不自然な行為である。その不自然さを「欺瞞」と呼び、僕がこのようなことをぐだぐだ書いているのも、この「欺瞞」に対する恐怖および不快感が原動力なのである、ということも書いた。「卒業投稿」に対する悪態も、そのキモチワルサに悪態をつかずにはいられない、要するに僕の(枠組みの)狭量さゆえんである。

 

 さて、大多数の人間は、この「欺瞞」を乗り越えて、というかほとんど意識せずに、自らの枠組みを組み替えてしまう。また、そこまで枠組みを同一化しなくても、その共同体で生きていくため、習慣を真似したり、価値観を共有したり、いわば枠組みを「なぞる」。しかし、この「なぞる」という行為が、『』の硬度をより高める要因のひとつ(というか主因)なのである。なぜなら、『』の硬度が高いというのは、共同体の中で他の選択肢がないまたは無力である、という状態であり、それは多数派あるいは有力者の支持によってもたらされる状態だからである。
 少数派は存在そのものが目障りである。集団が統一を目指す存在である限りこれはほぼ原理に近いものであるし、現代がいかに多様性の叫ばれる世界であろうと、集団を維持するにはある程度の統一性が必要であり、その「ある程度」を確保するために、集団の感覚は少数派をこれからも弾圧し続けていくことだろう、と思われる。
 しかし、これは、裏を返せば、多数派は存在そのものが圧力である、ということでもある。
 多様化を目指すはずの現代の世界で、『』や「」についての考察が、哲学者たちのみならずそれ以外の人びとにももっと広まってよいと思うのだが、その気配はない。硬度の高い『』が、しかも反省なしに存在し続ける限り、そんな状態でグローバル化を促進しようものなら、衝突、そして勝者による弾圧が行われるのは確実である。多数派からしてみても不用意な衝突や弾圧を少しでも避けるという意味で、少数派からしてみても、衝突を避けしたたかに生き残る方便を探るという意味で、このことは一考の余地があると思うのだ。今すぐに考えるきっかけだってある。卒業は、これまでいた共同体からの脱退を意味する。枠組みが組み替わるとすれば、まさに今なのである。その「欺瞞」の違和感を、少しでも感じたなら、考えを進めていくことは不可能ではないと思う。

 

2015 3 8