わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

重い書き物(1)

 『』に対する闘争、ということをずーーっと考えている。

 『』とは個々の「」の重なり合ったもの、そして、「」とは個々がそれを通して現実を認識しているものである。そうして認識されたものが「現実」である。
 社会とは、多数の人間の生活する時空のことである。社会は、個々の相互関係によって成り立っている。個人は、社会において与え、与えられることで生活していけるのである。
 社会が成り立つためには、個々の「」が共通している必要がある。それは、共同体の強度を保つために必要なのである。社会的な生活を営むとき、人々は無意識に『』をなぞる。無数の人びとが『』をなぞることによって、『』は強度を増すのである。

 具体的な話をしよう。「」とは、個々人の倫理や道徳、価値観、善の感覚(これがいい、あれが悪い)といったものである。そして、『』とは、個々人の住まう共同体に共通の倫理、道徳、価値観、善の感覚である。つまり、社会に適応するということは、「」をできるだけ『』に近づける、ということなのである。
 この近づける、という行為になんの抵抗もない人間はよい。たとえば、『』が宗教である社会の場合、個人の「」はそもそも『』に強烈に根付いたものであろうから、多くの人びとにとっては大した困難もないだろう。しかし、なにかのきっかけでこれが大変困難だと思う人間がいる。あるいは、最初は大丈夫だと思っていても、社会で暮らすうちにどうにも合わない、と気付く人もいる。そんなものは知らない、眼中にないという人もけっこういる。
 それなのに、これらの人びとは、『』に「」を近づける、ということを、やはりどこかで義務のように感じているようだ。

 ところで、この『』は社会によって異なる。価値観の違いが社会のあいだの紛争の原因となっているのは周知の事実だ。つまり、強固過ぎる『』は紛争をもたらす。宗教戦争はその一例である。
 そして、社会に生活する人々が単一の「」を持つことは、社会そのものの硬化をもたらし、なにか大きな変化が起こった際に対応できなくなる、という側面もある。「」の多様性を確保することは、社会の生命力を高める助けにもなるのだ。良い例が戦前の日本である。国家神道の精神を身体の隅々にまで、生活の隅々にまで行き渡らせた結果が、軍部の暴走であり、それを支持する一般民衆であり、結局太平洋戦争での破たんとなり表れた。

 どうにも、今の日本には、『』の強すぎる時代が再びやってきているのではないか、と思われる。自殺者数が3万人を超える(近年は超えていないらしいが)というのは、社会に適応できず、苦悩して死ぬ人間のあまりに多いことを示している。そうした現状で、『』をなぞる、という行為を安易に行ってよいのだろうか。まして、『』を「」に近づけるというのは、実は危険を招く振る舞いなのではないだろうか。

 当然、『』は社会で人々をつなぎとめるものだから、『』を破壊してしまえば、新たな『』がない限り社会は崩壊してしまう。となると、社会の『』の強度を、破壊とはいかないまでも、「」の多様性を確保することによって弱める(=ほぐす)ということが、社会の生命力を高める最も適当な方法なのではないか。

 『』をなぞらず、ほぐす、ということは、ひょっとすると良い社会貢献になるのではないか。ズレている人間にとっては、「」を『』に近づけるのも当然苦痛になる。『』に沿わない生き方(=メシの食い方)があるなら、それに越したことはない。

 と、ここまでは希望に満ち溢れた話であるが、ちょっと重大な問題がある。

 上の論理は、あくまで「社会の存続がよいものである」というひとつの価値観に基づいた話である。つまり、「未来なんか知らない、今の社会が楽しけりゃそれでいい」という社会では、上の理論は通じない。そして、
現在の社会がもしそのような社会でないとするならば、上の論理のもと『』に対する闘争を展開することは、現在の社会の『』をなぞることになり、当初のポリシーに反する。ここには、社会の需要に応えようとする限り、どうしてもなんらかの『』をなぞらざるを得ない、という、原理的な問題が潜んでいる。今日はここまで。うーん、難しい。 

 

2015 1 30