わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

需要のなさそうな武藤貴也氏のツイッター発言考察。~その正確な文意を読み取る~ 第二回

 相手と批判するためには、第一歩として、相手の主張をよく理解しなければならない。こうしたモットーに立ち、武藤議員のツイートの真意を読み解く記事の2回目である。本文に先だって言わねばならないことだが、そもそも解釈を要する発言をしてしまうというのが失態の一つであるのは言うまでもない。ただでさえナイーブな内容を扱っているのだから、意味を明確にすべきである。あのツイートには、書かれていない、「前提とされている」事柄がいくつかある。

 

 今回は、主に(3)「武藤氏は何を「利己的」としていたのか」というテーマで進めたい。ツイートを再び掲載する。(以下引用)

 

武藤貴也認証済みアカウント
‏@takaya_mutou
SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。

(引用終わり)

 

 このツイートを見て、実に多くの人びとが「武藤氏は「戦争に行きたくない」を「利己的」と捉えて、批判しているのだ」と受け取った。仕方のないことだと思う。しかし、その解釈は「だって」という三文字を無視してはいないだろうか。このツイートのみを見ても、何かの理由として「だって戦争に行きたくないじゃん」を挙げることが「利己的」であると批判している、ということは読み取れる。焦点は、何の理由としてそれを挙げるかということなのだ。

 

 それを解き明かすために、以下のニュース記事を見てほしい。

武藤議員 ツイッター書き込み撤回しない NHKニュース

 NHKニュースなので信憑性はそれなりだと思うが、武藤氏はこの中で「安全保障関連法案が成立しても戦争に行くことはないのに、(略)」と発言している。

 そして、武藤氏本人のブログでは、

「国民に課せられる正義の要請」|武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

にあるように、「「SEALDs」の方が仰る「だって、戦争に行きたくないもん」という自分個人だけの感情で、今議論されている平和安全法制に反対するのは、田中最高裁長官の言うように「真の平和主義に忠実なものとは言えない」」と、安保法制に反対する理由として「だって、戦争に行きたくないもん」を挙げることを批判していることもわかった。

 つまり、武藤氏は、「安保法制は戦争を招かない」という前提に立った上で、それにもかかわらず「だって、戦争に行きたくないもん」という理由で安保法制に反対する若者を、個人的な感情に流されて思慮が足りないという点で非難した、と読みとれるのではないか。この解釈は、NHKニュースで武藤氏が発言している「間違った情報に基づいて若い人たちが誤解したり、だまされたりしていることがあると思う。」にも符合するように思われる。……A3

 もっとも、これは武藤氏の発言を一貫性のあるものとして捉えた場合であり、一部の人びとの解釈に見られるような、「武藤はそもそも矛盾していて、戦争法案ではないのに戦争に行かないのを否定している」という解釈も、武藤氏の論理的能力や誠実さを信用しない限りにおいては成立しうる解釈だと思うが、そもそも相手の意見を正確に解釈しようという態度に基づいているとは到底思われず、私としては賛同できない。

 

 次回は、第一回で扱った(2)に関連して、「武藤氏の理想とする若者像とは何か」というテーマで進めていこうと思う。

 

2015 8 5

需要のなさそうな武藤貴也氏のツイッター発言考察。~その正確な文意を読み取る~ 第一回

 相手と意見を交わすためには、第一歩として、相手の主張をよく理解しなければならない。2015年8月3日現在、武藤氏が大炎上しているのは周知の事実だが、炎上という現象がそもそも、相手の意見に全く耳を傾けず、言葉の印象だけで相手を攻撃する烏合の衆が集まることによって成り立つ現象である。それは論難でも批判でもなく、ただの集中攻撃である。リンチといってもいい。相手がいかなる人物で、いかなる理由があろうとも、いじめはしちゃいけない、と言っている人が炎上に参加しているとしたら、自分ではその矛盾には気づけないのだろうか。

 

 前置きが長くなった。今回の考察は、主に次の点を取り上げる。

①結局何が言いたかったのか

②発言の背後にある思想とは何だったのか

 

 前回の投稿が、あくまであのツイッターの一言のみから分かることだけを書く、というスタンスだったのに対して、今回はツイッター以外のメディアも参照して、より深く正確に、その発言の真意に迫って行きたいと思う。ただし、あくまでツイッターの発言からは離れないように注意する。解明したいのは武藤氏の思想そのものではなく、あくまであのツイッターの発言の(より)正確な意味である。

 

 ここで、改めて問題となった発言を見てみよう。以下引用。

武藤貴也認証済みアカウント
‏@takaya_mutou 
SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。

(引用終わり)

 

 議論に入る前に、まずひとつ武藤氏の事実誤認を指摘しておきたい。武藤氏は、「SEALDs」が「だって戦争に行きたくないじゃん」という理由で反対デモをしていると認識しているが、SEALDs関係者曰く、自分たちはこのような主張をしたことはない、とのことである。すなわち、このツイートが固よりSEALDs批判のために書かれたのであれば、主張そのものが成り立っていないということになる。

 さて、この呟きは、大きく前半と後半に分けられる。つまり、SEALDsについて触れている前半部分と、戦後教育の話が出てくる後半部分である。

 前半部分と後半部分がどのような関係にあるのか、ということは、①結局何が言いたかったのかを解明するために是非明かさねばならないことである。

 

(1)ツイッターでやり取りしていたある人は、このツイートはSEALDs批判である、と言っていた。対して私は、これは現代の若者の風潮を嘆いているものだ、SEALDsはその一例に過ぎない、と言った。いったい、この呟きは何に対する批判なのだろうか?

 これは微妙なところである。前半が後半の具体例であると取るならこれは「若者批判」であり、後半が前半を一般化したに過ぎないと取るなら「SEALDs批判」である。これでは話が進まない。

 これに関しては参照できそうなツイートや投稿も見当たらなかったため、ヒントなしで考えるしかない。SEALDsを批判したくて書いたならば、SEALDsがいなくなれば満足するはずである。しかし、おそらくSEALDsがいなくなったところで、武藤氏は現代の若者が彼の理想通りでないことを嘆くのではないか。結局彼には今の若者の現状そのものが不満なのであり、SEALDsはその一例に過ぎない――一応私はこう考えて、この発言は「若者批判」であると受け取ったし、今もそう考えているのである。……A1

 

(2)彼がこのツイートで否定しているものとは何なのだろう?

 まず武藤氏は、「自分中心」「利己的個人主義」というワードをマイナス語(=良くないもの)として扱っている。これと対置できるのは、彼が別のツイートで挙げている「人としての道徳」という言葉だろうか。他人への思いやりの有無、という表現ができようか。

 そして、「利己的個人主義」が若者に「蔓延した」原因として「戦後教育」を挙げている。これもマイナス語だろう。だからといって「戦前教育」を武藤氏が全肯定している、とは言えない点に注意したい。が、少なくとも「道徳」的な面において、武藤氏は「戦後教育」よりも「戦前教育」の方が「良かった」、と考えているようである。

 また、「SEALDs」という言葉も当然マイナス語であるが、これと何を対比したらよいのだろう。逆らわない従順な国民とか天皇陛下万歳とか、安易な代入をしてはいけない。「道徳」がプラスだったことを考えると、「道徳を備えた人間」というのが対置できそうである。翻れば、「SEALDs」の「彼ら彼女ら」は「道徳を備えていない、自己中心的な人間」と捉えられているのである。……A2

 

 次回は、武藤氏は「戦争に行きたくない」と言うこと自体を「利己的」と考えているのか、などについて考えて行きたい。

 

2015 8 3