わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

sealds疲弊せり

どうせ長文で書いても読みにくいわ誰も読まないわでいいことがないので、箇条書きのフォーマットを試してみます。(文章を・で区切っただけのような気がしないではないが)

・sealdsは批判を受け入れない、という評判をよく目にする。
・しかし、sealdsが元からそのような集団であったというよりは、彼らが疲弊しているが故に、批判を聞き入れる余裕がなくなっているのではないか。
・sealdsには実に多数の批判が加えられている。
・それらを整理して、有用なものを吸収するのは大変な作業である。
・sealdsにはもはやそれをする体力は残っていない。
・彼らは強がっているが、実のところ、活動に関してどうしたらよいかわからなくなっているのではないか。

・sealdsのメンバーたる人物と、Twitterでやり取りをする機会があった。
・結果として、sealdsの怒りを共有できなかったのは残念である。
・ひょっとすると、善悪を安易に決めて、それを標的にして、もやもやを義憤と称してぶつけているだけなのではないか、という気さえしている。
・当然具体的な不都合があってそれが怒りに繋がっているのだろう、と思っていたが、民主主義の破壊というような抽象的な回答に終始し、具体的な不都合は結局はっきりとは聞かれなかったからである。
・あるいは、漠然とした不安があって、その不快感を怒りという形で表明しているのではないか、という気もする。

・こうしたことを含めて、世のありとあるsealds批判をわかりやすい形にまとめて、それを彼らに提示するのが、外部の人間の務めなのかもしれない。
・何れにせよ、sealdsをこのままポシャらせるのは、民主主義を信じる限りにおいては、僕個人が関わる未来の範囲においてさえ、良いことではないからである。

2015 9 11