わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

改稿:民主主義における「無知の知」~デモについて~新左翼、オウムの捉え直し

言いたいことはさして変わらないのだが、幾つか加えたいことがあるので、改めて考えてみたい。

 本題はすでに散々書いたので軽くだけ。一般大衆は、当然のことながら、政治の専門家ではない。政治家というのは政治の専門家である。簡単に考えれば、政治に関して、一般大衆が政治家にかなうはずがないのである。これは、言ってしまえば、プロ野球の采配を、飲んだくれたおっさんがあれこれ批判するようなものである。いくら自分では正しいと思っていても、聞く耳を持たれるはずはないことは明白である。
 さて、このことは、デモの問題と結びついている。デモとは民衆の意思表示である、という話をよく聞く。が、民衆が困っていればそれに耳を貸す、というのはあくまでタテマエの話であって、実際には「政治的な事情」が優先されるだろう、というのは容易に想像がつく。困っているとシンプルに訴えても駄目、政治的に語ろうと思ってもかなわないとなると、いったい一般大衆はどうしたらいいのだろうか。

 ということで、ここから、先の投稿に加えて、デモの意義とは、ということについて少し考えて行きたい。
 デモは何のために行うのか。冷静な民衆の意思表示という側面から、暴動的な民衆蜂起という側面まで、デモには様々な側面がある。しかし、上に見たように、冷静な側面の意義はあまりないようにも思われる。寧ろ、過去の例を見る限りでは、怒りなどの感情的な意思表示が有効であり、最も直接的な影響力があるのは暴動である。……(1)
 おそらく、怒りが全く伴わないデモはまったく影響を及ぼさない。そしてそれはおそらく、民衆の声に耳を傾けているのではなく、実害のあるなしで見ているからである。実害というのは、かつての土一揆などであれば生命の危機ということもあろうし、今では得票率の危機が主たるものであると思う。これらは、一旦実力で鎮圧したとしてもそう消える危機ではない。寧ろ更に盛り上がる危険もある。
 ところで、現状、デモに走る人間より政治に無関心な人間の方が遥かに多いのは周知の事実である。そして、政治に無関心な人間は選挙に行かず、投票する人間の多くはマスコミの誘導により形成された世論に流される。
 こうした現状で、デモというのは、果たして得票率の危機を本当に起こしうるだろうか?
 政治に無関心な人間はこうしたデモに対して、平常な日常に荒波を立てる所業として嫌悪感を示す。上のことを考えれば政治に無関心な層が直接選挙に影響を及ぼすわけでもないのであるが、否定的な世論の形成というクッションを挟むことで、やはりデモに対する嫌悪感という影響は大きく出ると思われる。これではまずい。デモの意図するところでは当然ない。
 加えて、(1)に基づいて、デモが暴力的であればあるほど影響力を持つ、という観点に立てば、デモが暴力的であればあるほど世論は否定的になる、という推測も泣き所となる。現実的には、暴力的なデモというのはやはりあまり得策とは言えない気がする。
 更に、戦後の日本は暴力的なデモに辟易してきた、という歴史がある。暴力的なデモは更に過激化すると暴力革命の思想につながる。そう、新左翼オウム真理教である。彼らは最終的に世論を味方につけることを放棄し、いわばデモに失敗した。
 考えてみれば、民主主義の時代だと謳われながら、こうしてデモに悉く失敗してきたという歴史が、日本人から政治的関心を奪っている一因となっているのかもしれない。つまり、伝統的な「どうせお上がやってくれる」という無関心とはまた別の、「どうせ聞いてくれない」という、悲痛なニヒリズムである。

 彼らの「デモ」は道義的に見ても方法的にも明らかに過ちであった。しかし、規模こそ違えど、同じ「変革を期待する者」という視点に立つとき、全く無意義であり論外だと考えられている彼らをこうした歴史的な流れの中に位置づけ、今の我々にも通ずる新たな問題を発見することができるのではないか。それは、なによりも我々が同じ過ちを犯さないためである。

 

2015 7 15