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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

【まとめ・6】 論理について(論理を疑う)

 いろいろ考えた挙句ニヒリズムの立場に立っている以上、「正しいもの」という存在を認めるわけにはいかない。あるとすれば、それは「ある人間が恣意的に正しいと思っているもの」でしかない。これは論理的に正しいものについても同様である。

 そもそも、論理は万人に共通する正誤の尺度である、という説が胡散臭くてしょうがない。論理的な正しさは誰にとっても明らかである、というのは、おおよそ人間のすべての学問やすべてのコミュニケーションに共通する前提であるが、果たしてどうしてそのようなことが言えるのだろうか?そもそも論理的な正しさが何たるかということがさっぱりわからないのに、そういったことが断言できるはずはないのではないか。
 と、ここまで書いて、自分の書いていることが若干疑わしくなってきた。つまり、論理的な正しさが何たるか、ということが実は解明されていたら困るな(しかしその手段は非論理的でなくてはならないわけだが)、と思ったのである。しかし、ちょっと検索してみる限りそういったものはなく、代わりに「論理は凡その人間が納得して使用できるツールに過ぎない」という解釈が多くみられた。
 その説を取るとして話を進める。この説に加え、完全に論理を操れる人間というのは、歴史を眺めてみてもひょっとしたら存在しないのではないか。高名な哲学者たちも、人により同じ問いに色とりどりな結論を出しているのである。もし論理が一筋の道であるとして、論理を完全に操れる人間が複数存在すれば、同じ問いに対しては同じ答えが出るはずなのである。こう考えると、「完全な」論理的な正しさ、という状態が一体なにを指しているのか、さっぱりわからない。すると、「中途半端な」論理的な正しさ、というのも、さっぱりわからない。普段人間は「中途半端な」論理的な正しさに基づいて生きているわけだから、生活の基盤そのものがよくわからなくなってしまうのである。

 そのものの正しさを証明するためにはそのもの自体は用いることができない、というような格言?があるらしい。2、3どこかで耳にしたり目にした記憶がある。これは何を言わんとしている言葉なのかというと、民主主義の枠組みでは民主主義の正しさは証明できないし、戦争バンザイの国では戦争の正しさは証明できない、というように、そのものの存立基盤となっている、前提化された「ベクトル」を、そのものの中で動かすことはできない、ということではないか。もう少し噛み砕けば、そのものの中の「話の流れ」というのは、すべてその根底の「ベクトル」を支持するような流れになっているのであり(合理的に生産されたものであれば)、そのものの中の論理に基づけば必ず「ベクトル」を肯定することになる。だから、そのものの中から正しさを検証しようというのはそもそも無意味なことである、ということになる。いわば合理的生誕の歴史をさかのぼって行くようなものである。

 さて、論理はこの格言では捌ききれないかもしれない。この格言はご覧の通り論理の正当性や存在が前提となっているのであり、論理そのものについて適用するにはかなり注意が必要そうである。
 しかし、もしも論理的正誤の判断が人間という種の個体すべてが有する感覚に基づくものであると断言してよいのなら、根底の「ベクトル」とはその感覚であると言えるだろう。そして、この「ベクトル」が「正しい」かどうかの判断は「非論理的な」何かしらに委ねられるわけであり、「非論理的である」という言葉がそのまま批判対象を誤りであるとして退けてしまうような文化では、論理の「正しさ」は永遠に証明できないわけである。逆に言えば、これが、論理の「正しさ」が「感覚」という非論理的なものによって支えられている証拠になるのかもしれない。……

 定義を差し戻し、存在を差し戻し、ここまで書き連ねてみても、やはり残るのは論理という正体不明のものへの不安である。しかも、ここまで書いてきた文章にさえ論理はくっきりと刻みこまれている。ここまでくると、はっきり言ってもう全部地底人の陰謀にしてしまいたいくらい、人間はわけのわからぬものに支配されているように見えてくるのである。

 

2015 7 1