わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

【まとめ・2】 欺瞞への嫌悪(押しつけがましいのへの嫌悪)

 欺瞞が嫌いだ。欺瞞とは何か、ということをずうっと考えていたが、自分の明確に嫌いなものであるにも関わらず充分な定義ができない。ただ、不十分でも定義するとすれば、「何らかの正当性を保証し、かつ他人(または自分)に対しその正当性に基づくよう押しつけるものに対し、それを受け入れさせる(または受け入れる)こと」ということになる。
 これが定義の時点で明らかに偏っているのは明白である。欺瞞という言葉に含まれる、誰にでもわかる意味は、嘘である。欺瞞が嘘であることぐらい誰にでもわかる。どんな嘘かということが争点なのに、嘘の一文字は出てこない。つまり、この定義に「そもそも正当性など存在しないのだから、正当性を保証するものはすべて嘘だ」という前提が含まれているのである。
 さて、そういった、そもそも正しいものなど何もないという立場に立てば、なんらかの正当性を有するものはそのまま全て押しつけがましく見えるし、自然そのすべてが欺瞞だということになってしまう。そして、僕はその立場に立った上で欺瞞が嫌いだと言っているのだから、如何に世の中に僕の嫌悪の対象が多いことか、というのが理解できると思う(もちろん理解できないと思うが)。
 道徳もそうだ。論理もそうだ。正しいというのは、要するにある人間にとって腑に落ちるということである。とすれば、論理が正当性を保証する強力なツールであることは明々白々である。

 怒りというのは何かの痛切なる要求であるとどこかで読んだ。そのことを今自分がカッカしていることに適用すると、おおよそ自分には何も押しつけてくれるな、ということになるのだろうか。正しさを否定する人間は当然ながら正しさに生きることは出来ない。人間がなんらかの行動を取らねば生きていけないものとして、そのためには何らかの行動基準が必要であるとすると、正しさ以外の既知のものは好き嫌いぐらいしかない。好き嫌いに生きよう!とか言っているのはやかましい。ノイジーマイノリティというのは存在自体が押しつけがましい。さてどうしたものか。自分自身が嫌悪する対象になってしまった。山に籠る以外ないのかしら。あるいは。

 

2015 7 1