わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

ものまねからドッペルゲンガーへ、そしてどこかへ(引用)

「――で、今日はまったく関係のない話。ものまねについて。ものまねというと古典的な芸のひとつで、やっぱり面白い。しかしなんで面白いのかということをつらつらと探ると、よくわからない。
人が面白いと感じる時、それは「良い方向に意外」なことがあった時、という話がある。びっくりした拍子に力がいい具合に抜けて、笑っちゃう、という構造だ。これを考えると、ものまねのどこかに意外さを感じるからこそ面白い、ということになる。
その根っこには、「他人というものが互いに似ているはずがない」という前提があるのだろうか。それを崩されるからこそ笑いが出るのであって、「同じヒトという生物なのだから共通点は多い。だから似ていて当然だ!」などと考える人はものまねを見ていても楽しくないんじゃないかと思う。ただなんか違う気もする。
ところで、ひとくちにものまねと言っても、たとえばコロッケのように明らかにその人を茶化したりしているものもあって、こういうのだと事情は異なってくる。純粋に「似ているぅ」という面白さとは当然違うものが付加されているのだと思う。
さらにところで、世界には自分と外見の似た人間が7人いるという話もある。全員見たら死ぬらしい。アジア人はともかく、ヨーロッパ人やアフリカ人に似た人がいるというのもなんか妙である。
さらにさらにところで、ドッペルゲンガー、という概念がある。見たら気ぃ狂って死ぬらしい。自分とそっくりの姿をした存在が見えるらしい。そりゃ気も狂って死ぬわなという話だが、厄介なのはこいつが自分の視界外に表れたときである。外国ではぼちぼちそういう例もあるようで、まったく違う場所に同時にいたのを複数人が確認している、なんてこともある。他人にもみえちゃうドッペルゲンガーというのはトンデモない存在だナァ。
芥川龍之介は死ぬ間際ドッペルゲンガーを見たという。そして、「人を殺したかしら」という、ドッペルゲンガーにまつわる小説を書き残して自殺している。おそらく青空文庫で読めるので読んでみると楽しいかもしれない。

という、特に着地点のない話でした。」

 

2013 12 27