わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

作られる美談とそれを求める心

 マスコミは美談を募り、美談を作る。それを皮肉る言説は今まで散々見てきた。のみならず、自分の内部にもそうした皮肉を吐きたがる気持ちのあるのを知っている。しかし、果たしてその皮肉はなにを示しているのだろうか?
 それは、美談を募り作ってしまうマスコミの動きを真剣に批判しやめさせようとしているものではないだろう。マスコミが人々の求めるものを報じる、というのは、ある点では仕方のないことである。としたら、それは寧ろ、美談を求める我々の性質に向けられているのではないだろうか。
 しかし、たとえば今回の地震、あるいは東日本大震災や9.11のような出来事によって傷ついた人たちは、少しでもそうした癒しを求める。日々の生活に疲れた人たちは、明日への活力にほんの少しの癒しを求める。こうした人々の心の動きを皮肉ることはできるだろうか。
 こうした経緯で、美談に関するこの種の皮肉は宛先不明となってしまう。
 
 美談を求める心のなにがまずいって、それが出来事に美談というあらぬ「善性」を与える、つまり情緒的にその出来事を正当化し肯定してしまいがちであるという点である。アジア太平洋戦争中のマスコミと国民は、一面では、そうした意味で協力関係にあったと言ってもいいと思う。
 つまり、美談を求める心の行く先は猛烈な現状肯定であって、現状が必ずしも望ましいわけでもないのに、その心のせいで現状を歪めて認識してしまう、という事態が起こりうる。自分にとって望ましくない現状を無理やり肯定することは、それぞれの人間にとってそれぞれ不利益である。
 しかし、だからといって、苦境にある人たちに、「藁にもすがるな」とは言えないだろう。それは、共感の原理が働くからであろう。
 それでもなお、内面に皮肉な気持ちは消えない。この皮肉が意味するものを未だに掴み得ていない。
 
 スポーツ選手は「プレーで夢を与えたい」と言う。しかし、プレーによって与えられる夢がどんなのであるか自分にはよくわからない。プロスポーツ選手になりたいという憧れを与えるのだろうか。人は自分の無力を自覚して「せめて祈ります」と言う。彼は敬虔な宗教徒であったか?いったい誰に何を祈っているというのだろうか。目を閉じるのは自分の無力感に対する焦燥感を鎮めるためではないのか。
 いくらその場しのぎの癒しによって苦境を乗り越えたとて、待っているのはただ死ではないか。そう考えると傷ついて癒しを求める人々の心はあほらしいな、ははは、と笑えることでもない。皮肉はこうした意味でもないらしい。
 
2016 4 18

倫理と道徳の違い

某予備校教師に何事か質問しに行った時、話の流れでこの話題になった。

倫理と道徳は、人によって様々に定義されているようである。中には違いなんかないと言う人もいるが、具体的に定義を考えなくても、その用法の違いは見出せる気がする。
たとえば、小学校で教えるのは道徳であり、中高で習うのは倫理である。倫理の授業内容は道徳のそれとまったく異なるが、文科省は道徳の延長線上と位置付けているのだろうか。「高等学校学習指導要領解説」の中では、倫理は、「公民科の目標の下に,人格の形成に努める実践的意欲を高 め,良識ある公民として必要な能力と態度を育てることを目指して設けられた科目である」とされている。この「公民科の目標」とは、同じ資料にある「広い視野に立って,現代の社会について主体的に考察させ,理解を深めさせるとともに,人 間としての在り方生き方についての自覚を育て,平和で民主的な国家・社会の有為な形成者と して必要な公民としての資質を養う。」というものである。時間と字数的にあまり深追いはしたくない。教科としての「道徳」との関連は明確には書かれていないものの、少なくとも、古哲の思想を暗記するだけではなくて、それをゆくゆくは実践することが求められていて、この点では「道徳」の延長線上にある、と言えるのではないか。
また、「企業倫理」とは言っても「企業道徳」とは言わない。道徳は「美徳」「仁徳」と関連づけられるが、倫理はそれに比べていくぶん温度の低い感じがする。もっと良い例はないだろうか。

ネットでもいろいろな人がいろいろな意見を書いているが、どれも、「使う人によって定義は異なる」という点では共通している。これじゃ救いがないが、むしろそれを前提として、語感としての違いを追求するのが目標である。
そうした観点で、僕がいちばんしっくりきたのが、上の予備校教師に聞いた定義だった。曰く、「道徳とは上から与えられるもので、万事それに従わなければならない。倫理とは状況に応じて、自分たちが編み出すものである」と。これがかなりしっくりきた。確かに、小学生が学べるのは道徳であって倫理ではないし、企業が考えるべきなのは道徳では答えが出せない倫理的な状況である。僕の書くものも、基本的にはこの定義に準拠している。