わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

SEALDs批判~泥憲和氏のある擁護記事から~

 以下の記事を読んで腹が立ってしまった。

泥 憲和 - 【インテリってやつは…】 SEALDsのコールに違和感を覚えるという人がいる。... | Facebook

 この記事の概要は、

①SEALDsのコールを変えるという意見は採用できない
②そもそも少数意見を全て採用することはできず、どうしても気になるなら別行動を取るべきだ
③そもそも知性的でない行動をしているのは政権側の方であり、上品で知性的なやり方では相手にやられてしまうのだから、そのような意見は一顧の価値もないし、そのような活動が影響を与えるはずもない
④同様に、少数の決死隊的な活動にも影響力はない
⑤最後に、いかに論理的でも、中身は「小理屈」であって、なんにもわかってはいない

というところだ。読んだときに腹は立ったが、こうしてみるとさほど無茶苦茶なことを言うわけでもない。②は一見まともな意見であるし、③④は、活動が平和的すぎても過激すぎてもいけないというのだから、よく考えられていると思う。

 

 それでは、どこに腹が立ったのか。単刀直入にいってしまえば、⑤である。僕は考えるということに無上の価値を感じているというか、徹底的に考えるということを狂信的に信仰しているため、それをこんな適当な話の流れで否定されてたまるか、という風に思ったようである。

 

 この記事は、他人の文章にコメントを付ける形でかかれている。それにも関らず、その文章について反論しているようには見えず、自分の主張ありきで全く話を聞いていないように見える。

 これには理由がないわけではない。引用された文章は、社会運動上蔑ろにされていると思われる参加者の人権について書いてある。しかし、この文章では人権について一言も触れられていない。

 さらに、「少数意見の尊重」についても、議論はされているが、少し進め方がおかしい。「少数意見の尊重」と「少数意見の採用」は異なる。確かに「少数意見の採用」を際限なくやっていては活動ができるはずはないし、その限りでは間違いではない。しかし、一番重要なのは少数意見として挙げられた問題点について、もう一度検討し直すことではないか。

 この2点から、この記事は引用文の反論にも何にもなっていないし、ただ自分の主張を強調したいがための記事にしか見えないのである。

 この記事について感じたことは以上になる。以下は、これに関連してSEALDsの活動について批判したいと思う。SEALDsがこの記事のような風潮の元にある、という仮定のもとだが。

 

 左翼は、異なる意見を排除して、一般大衆から先鋭化してしまう、とよく言われる。「左翼」という言葉があいまいすぎてほとんど何も言っていないも同然だが、これがSEALDsにもあてはまるとして、いったいどうしてこうなってしまうのだろうか。

 これには、「左翼」のうち、特に活動を重視するものについて、上の発言が当てはまる、という前提がある。思考は活動の妨げになる。これは紛れもなく事実である。考えている時間があるなら行動しろ、という格言は、ある種の正当性を持っている。

 しかし、果たして活動から思考を排除してしまってよいのだろうか。思考の役割とは活動の軌道修正である。思考を排除すると、活動の軌道修正ができなくなる。軌道修正ができないということは、最初の方針が間違っていた場合、最悪の結末に向かって全速力で突き進むことになってしまう、ということである。更に、その最初の方針さえ徹底した思考に基づかないとしたら、活動の成功は完全にギャンブルになってしまう。更に、暴走する活動についていけない人間が脱落していき、活動は空中分解してしまうかもしれない。いずれにせよ、活動に幸福な結末を招かないことは目に見えている。

 

 活動と思考、というテーマは、社会運動に限らずどこでもよく見られる構図である。限られた時間の中で、活動はある目的を達成するために行われている。悠長に思考していては、目的に到達できないのではないか、という批判は依然として有効であるし、それこそしっかりと思考しなくてはならない問題だと思う。

 しかし、だ。いくら思考する時間がないと言っても、結論ありきの議論を繰り返すのはどうかと思うのだ。この記事についてもそうである。結局⑤が言いたかっただけであり、はなから引用文はだしに使われたのだ、と見えてもしょうがないほどに、引用文は参考にすらされていない。結論ありきの議論に陥るのは構造的な問題で、単純に彼らに結論を動かす気がないからなのであるが、それが過去の活動の失敗に直結してきたことを彼らはさっぱり学んでいないかのようである。

 本来左翼的活動は市民感覚の中から出てくるべきものである。即ち、左翼的活動は、大多数とは言わないまでも、多数の国民から支持を得ているのが当然であるし、そうでない活動は暴走している可能性がある、ということになる。これでは国民の名を騙った先鋭集団による活動、ということになってしまう。それはSEALDsとしても不本意なのではなかろうか。

 しかし、彼らは今日も自分たちの「正の感覚」「善の感覚」の増幅に余念がない。思考を軽視し、活動や感情に過剰に価値を置く感覚というのは、少なくとも僕はあまり好きではないし、活動を破綻に導く感覚だと思うのだがなあ。

 

2015 8 25