読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

需要のなさそうな武藤貴也氏のツイッター発言考察。~その正確な文意を読み取る~ 第三回

 このシリーズは、武藤氏の発言が一貫した思想のもとにある、という前提で書かれている。そうした意味で、ここに書かれていることは正確な解釈ではないかもしれない。しかし、逆に言えば書かれていることを辿ればこうとしか解釈できないのではないか、ということを提示しているのであり、誇大妄想的に武藤氏の思想を膨らませて、それをあたかも事実であるかのように扱い、批判するというやり口を批判するために書いているのである。(それはしばしば、「~と言っているのと同然でしょう!」といった表現でなされる。)

 

 さて、第一回では、(1)武藤氏のツイートが何を批判したものであったか、そしてそれをもとに、(2)武藤氏の価値観では何が否定されるのか、ということを考察した。第二回では、(3)武藤氏が「利己的」と批判したものはなんであったか、ということを考えた。最終回となる今回は、その背景として、(4)武藤氏の価値観では何が肯定されるのか、ということを考察していきたい。(2)の補足であり、今回で武藤氏の価値観のおおよそを掴んでおきたい。

 

 それにしても、季節が移り変わるのは早い。国会と左翼デモの中以外では、誰も武藤氏の発言のことなど覚えていないのではないか。詳細な考察などされない。世の中を方向づけるために、こうしてあらゆる事件は利用されていくのだ、ということを良く覚えていてもらいたい。

  

 (2)の答えを再掲する。

また、「SEALDs」という言葉も当然マイナス語であるが、これと何を対比したらよいのだろう。逆らわない従順な国民とか天皇陛下万歳とか、安易な代入をしてはいけない。「道徳」がプラスだったことを考えると、「道徳を備えた人間」というのが対置できそうである。翻れば、「SEALDs」の「彼ら彼女ら」は「道徳を備えていない、自己中心的な人間」と捉えられているのである。……A2

 ここで言っていることはそう多くない。(戦前)道徳はプラスであり、自己中心的はマイナスである。自己中心的をより詳しく見たのが(3)であり、その詳細な意味は、個人の感情に流されて思慮が足りない、ということであった。一見、道徳と自己中心的は対置できるように思えるが、こうなると、自己中心的とは思慮が足りないの言い換えに過ぎず、したがってマイナスとされるのも当然のことである。

 以上がツイートのみを頼りにわかることであるが、武藤氏のホームページに行けば、武藤氏が何を理想としているかがより明白に書いてある。以下、少し抜き書きしてみよう。といっても、ここでは政策的な側面より、より倫理的な側面を抽出してみる。

 情熱、勇気、強い信念、弱者・敗者を助ける優しさ、夢、希望、正直、誠実、勤勉……。何のことやらという感じだが、これらは武藤氏の言う「道徳」の内訳ではないか。そうだとしても、特筆すべき点はない、という印象を受ける。より具体的には、ブログの方が参考になるかもしれない。

 「国民に課せられる正義の要請」という記事には、「世界中が助け合って平和を構築しようと努力している中に参加することは、もはや日本に課せられた義務であり、正義の要請だ」という記述がある。ツイッター炎上に反応した記事であることも鑑みれば、「利己主義」に対置して、「助け合う」という行為がプラスである、と言える。興味深いのは「司法は科学よりも科学的に勝るのか ~「裁判所万能論」を廃す~」という記事で、司法の人間は科学分野の専門家ではなく、したがって専門家より正確な判断はできない、という単純明快な論理に基づいて書かれている。司法批判は「「法の賢慮、平等主義に敗れたり」」という記事にも見られる。ここでは、グローバル化の波によって、日本の伝統的価値観が「欧米型の平等原理主義」に凌駕されかけていることを述べ、司法を「グローバル化の忠実な指導役」と表現している。

 

 書き並べればきりがないし、ひとつのツイートについて、わざわざその背景を辿る手間も普通の人は払わない。しかし、仮にも批判するのであれば、少しは調べるくらいのことをしても良い気はする。批判にならない批判をしても相手にされるはずはないし、相手にされないことで批判する側にもストレスがたまる。大体がこういった構図である。これを繰り返すのはあほらしいので、もっとまともな、相手が議論する価値を見出せるような批判をして、よりお互いの理解、思想を深めていくプロセスを踏んでほしい。

 

2015 8 15