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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

武藤貴也代議士のツイッターでの発言について(戦争に行きたくない、は利己的?~「永遠の戦前」を生きる)

 詳細はご存じの方が多いと思うが、武藤貴也代議士のツイッターでの発言が大炎上している。しかし、適切なつっこみをしているツイートにはあまりお目にかからないし、武藤代議士の文意さえ読み取れていないリプライも多い。ここでは、そこらへんのごたごたを少しまとめてみたいと思う。

 ざっくり言ってしまえば、大半の人間は武藤氏のツイートを誤読しており、それゆえ批判は大体的外れである。しかし武藤氏にも事実誤認という落ち度がある、というところだ。

 

 さて、まず問題のツイートがこちら。(以下引用)

 

武藤貴也認証済みアカウント
‏@takaya_mutou

SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。

(引用終わり)

 

 このツイートの、「戦争に行きたくない」「利己的」という部分を抽出し、やんややんやと批判するコメントが大多数である。しかし、それはお門違いである。

 ツイートを見ればわかるように、「だって戦争に行きたくないじゃん」が利己的なのであって、「戦争に行きたくない」が利己的であるとは一言も言っていない。これは何を意味するか。「戦争に行きたくない」ことの理由が「だって戦争に行きたくないじゃん」である、という点を「利己的」であるとして、彼の視座から嘆いているのである。彼の他のツイートから察するに、利他的な道徳心(それは日本の伝統的な精神とされることもあるが)が今の若者に失われている、ということが言いたかったのであり、それにSEALDsの例を挙げたに過ぎないのである。ここを誤読して、「戦争に行きたくない」のは「利己的」であるから悪、という主張に読み替えてしまった者が大変多かったようである。

 ところが、この武藤氏の意見はおおむね妥当であるにも関わらず、SEALDs批判には当たらない。なぜか。

 これはSEALDs関係者からコメントを頂いたことによりわかったことであるが、SEALDsはそもそもそのような主張を掲げて運動をしていない、というのだ。確かに、「だって戦争に行きたくない」を掲げて運動していた若者団体も記憶にあるから、武藤氏は彼らとこのような団体をごっちゃにしてしまったものと思われる。この点のみが武藤氏の落ち度である。

 

 では、なぜ炎上したのか。もちろん、こうした誤読により、自民党を叩きたくてたまらなかった人たちの格好の餌となってしまったのは確かだが、その他に、「戦争行きたくない」は「利己的」、の時点で頭に来てしまった人たちも多かったのではないか。

 しかし、それでは残念ながら武藤氏と同じ穴の狢である。それで頭に来るということは、「利己的」という言葉を「悪いもの」と感じていることになる。「利己的」が「悪い」というのは、武藤氏の主張そのものである。

 

 

 以下はながいながい蛇足であるが、果たして「戦争に行きたくない」が利己的である、という主張は断罪されるべきなのか?という点を考えて行きたい。実際、今回の一件でも、誤読をしたうえでこうした話題について意見している人もいた。

 意見は、ざっくり分けると「利己的ではない」派と「利己的でいいじゃないの」派に分かれていた。前者は戦争が普遍的に個人や人類に損失を与えるものである、ということを、イラク戦争における米軍兵士のPTSDなどを例に論じている。

 興味深いのは後者である。武藤氏はまさに嘆かわしく思っているだろうが、後者のような人間は利己的な主張をすることを全く悪いことだと思っていないし、厭わない。私もこの立場に賛成である。

 そもそも、私の主張であるニヒリズムの立場からして、「利己的」が「悪」という主張がそもそも成り立たない。だから、発言がいかに利己的であろうと気にする必要は全くないのである。そして、むしろこの「利己的」な意見こそが、反戦運動の依って立つべきところなのではないか、とも思っている。

 戦争が悪いのはなぜか。国家がダメージを受けるからか。経済界に損失を招くからか。それもあるだろう。しかし、民衆が「戦争はいけない」と言うとき、理由は、「戦争は怖いし、悲しいから」である。

 戦争は知人や身内の人間を傷つけ、奪う。場合によっては日々爆発の脅威に曝され、死と隣り合わせの生活を強いられるかもしれない。いずれにせよ、日常が変質してしまう。これはなんら公的な意見ではない。まぎれもない私情である。

 しかし、こうした紛れもない私情こそが、戦争を忌避する大きな理由なのではなかったか。平和主義などといった理念には実感が伴わない。そんなものに血道をあげる時代は、残念ながらとうに終わってしまったのである。武藤氏の嘆くことは、ある点では正確であるように思われる。今は個人主義の時代だ。理念は人びとの信じるところではなくなってしまった。反戦主義が平和主義に依って立つ時代は、終わったのではないか。

 

 現在は「戦後」ではなく、もはや「戦前」なのではないか、ということがよく言われる。ここに、言葉遊び以上の意味を付与するとすれば、我々日本人は、反戦を旨とする限りにおいて、「永遠の戦前」を生きるべきなのである。国際関係が順調なままでいられるはずはない。必ずいつか、どこかの国との関係が危機的状況に陥ることは、おそらく疑うべくもない事実である。現在だってそうかもしれない。戦争に陥る危うさは常に存在するのである。そうした危うさを、綱渡りのようにして乗り切ることが、「永遠の戦前」を生きる反戦主義の、あるべき姿勢なのである。

 

 私は反戦主義者ではない。一介のニヒリストに過ぎない。が、戦後70年を迎え、薄れゆく直接体験、それを伝承しようという動きもあるが充分な抑止力にはなりえない、さらに個人主義の時代で平和主義はもはや信仰されていない、こうした状況の中で、反戦運動があまりに行き届かない理解のもとでしか行われていないことに、もどかしさを覚えるのである。ただ騒ぐだけではしょうがない。頓珍漢なコメントをしたところで、武藤氏をはじめ政治家の耳には届かない。あげく同じような意見の人間とばかり群れて、反論を挟む人間とはすぐ関係を断ち切る、というような姿勢では、到底その願いが達成されるとは思わないのである。「戦争に行きたくない」は「利己的」で当然だし、その「利己性」に立ちかえることこそが、反戦主義の進むべき道なのではないか。 

 

2015 8 1