わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

ニヒリズムと平和主義~反戦デモに宛てて~

 平和というのは、一般に言われているように素晴らしいものではない気がする。というのは、平和は理想状態であるというより、寧ろ前提の状態として想像されるべきものである気がするからだ。もちろん、平和の実現する可能性、継続する可能性の低いこと、そのための労力の甚大なことはよく承知している。突然こんなことを言い出したのは、平和主義というものの特異性を考えてみるためである。

 まず前提として書いておきたいのは、現在構想されている「均衡による平和」などは、ここでの平和主義の目指すものではないのではない、ということである。ここで扱う平和主義とは、核兵器廃絶や戦争反対といった、世間では「お花畑的」と言われかねないような思想のことである。以下平和主義と出てくる箇所も、一般に言われているよりは狭い意味で使われていることに、くれぐれも注意されたい。

 平和が理想ではなく前提であるのと同様に、平和主義というのも、「よりよい世界」を作るということではなく、「最低限の世界」を作るということなのではないか。つまり、0以上からプラスを目指すのではなく、マイナスから0を目指す思想なのである。
 ここまで書いてもまだピンとこないとは思うが、ここから先が重要で、要するに、平和主義は正当化された主義ではないのである。平和主義は個々人の生理的欲求に基づくものであり、具体的に言えば、「戦争したくない」「死にたくない」「グロいのいやだ」といった、理念とはおおよそかけ離れた、個人の感情に基づく思想なのである。これに対し、他の主義主張というのは、何らかの理想状態を構想し、それを正当化し、それを目指す、つまり「0以上からプラスを目指す」思想なのではないか。

 ここから何が言えるか。他の主義主張にも根底には人間の生理的欲求がしっかり潜在している。その点平和主義と他の主義がさして違うわけでもないのだが、ほかの主義は正当化の論理が表面にあり、平和主義は正当化の論理(自然健思想であったり)よりも個人の生理的欲求が表立って出てくるという点で、やはり平和主義は独特の存在である。
 ところが、これまでの平和主義運動というのは、他の主義と張り合う際に、結局正当化の論理に頼ってきたのである。これでは平和主義の特性を生かした運動とは言えないし、結局張り合いに敗れてしまうことになる。平和主義の強み、他の主義と張り合う際の武器というのはむしろ、他の主義の持つ正当化の論理の「否定」という点にあるのではないか。
 ここでニヒリズムと結びつく。現代はニヒリズムの時代と言われている。それは、単純な意味では「あらゆる主義の正当性の喪失」であった。とすれば、現代はまさしく平和主義に追い風の吹いている時代、ということになる。
 同時に、平和主義の脆弱さも理解しておかなくてはならない。ここまでで、平和主義は、他の主義の正当性が崩れて初めて居場所を確保できる思想であるということを書いてきた。平和主義を否定するためには、他の何らかの主義を立てればよいだけである。そして、その正当性を否定するのがニヒリズムであり、そうした点において、ニヒリズムと平和主義には、想像以上に深い接点があるのだと思われる。平和主義を美化するのではなく、こうした点に自覚を持って、もっと地に足のついた運動というものを期待したい。

 

2015 7 27