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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

【まとめ・10】 ニヒリズムと相対主義

 前の投稿で、ニヒリズムを矛盾なく運用していこうとすると、結局相対主義に辿り着く、ということを書いた。しかし、ここである疑問が浮かぶ。つまり、そもそもニヒリズム相対主義とには、どんな違いがあったというのだろうか。

 前回、相対主義はしばしば穏健的なニヒリズムの名を借りて現れる、ということを書いた。このことが今回の疑問を解決する助けになる。つまり、ニヒリズムは「穏やか」ではないのである。
 
 ニヒリズムは、否定こそがその本質なのである。相対主義の行きつく先はすべてが不可知の、もやに包まれた冷温停止状態である。ニヒリズムは、否定により反作用の力を得ることで、新しいものを生み出す活力となりうる。
 だから、そういった意味で、相対主義ニヒリズムも、「主義」であるというよりかは、ふたつの道具と認識すべきなのである。相対主義は、他の主義が暴走しすぎないためのブレーキである。ニヒリズムは、既存の主義主張を否定し異なる観点を創出するための道具である。これらが、先日述べた「制御」の具体的な中身ではないだろうか。少なくとも現時点では、ニヒリズム相対主義をこのように認識することが、これらを暴走させないための「制御」として、一番適切な解であるように思われる。

 

2015 7 1