わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

【まとめ・9】 ニヒリズムについて

 日頃ニヒリズムニヒリズムとうるさいにも関わらず、ニヒリズムとは何か、ということを説明しようとすると、けっこう困ってしまう。折に触れて何度も定義しようと試みているが、なかなかうまくいかないというのが現状である。
 
 ニヒリズムというのは、「無」主義のことである。一般には虚無主義と訳されるが、虚無という言葉の持つ頽廃感が先立ち、その論理的な側面が目に入らない傾向があるのではないかと思う。ということで、ここでは「無」主義という呼称を使う。(無に括弧がついているのは、無主義=主義主張が存在しない、との混同を避けるためである。)
 ニヒリズムは、既成の芸術観をひっくり返すことを旨とした芸術運動であるダダイズム、既存の支配体制の否定を旨としたアナーキズム、何か既存の価値観などを否定する相対主義、個人生活レベルでは、自堕落、放蕩、無頼、耽美などといった生き方と親和性がある。特に、相対主義はしばしば穏健的なニヒリズムと名前を変えて現れることがある。いずれも、既に存在する何者かを否定するという形でニヒリズムが現れていることに注意されたい。

 「無」主義とは何か。あらゆるものは存在せず、幻影であるとする立場である。つまり、何かの存在を主張する言説に対しては、常に否定的に働くことになる。倫理なんてない、道徳なんてない、正しい政治体制なんてない、「正しさ」なんてない、と、ここまで行き着いたとき、「無」主義は自己矛盾を来すことになる。つまり、「無」主義は当然にして「無」主義を常に肯定している、要するに、「無」主義は正しいものですよ、というのが「無」主義の主張なのであるから(「主義」とはそういうものである)、「正しさ」なんてない、という主張を正しいと看做す、という、分かりやすい矛盾に陥るのである。つまり、「無」主義を全面的に肯定し、万物に適用する一種の原理原則とするのは、構造的に不可能なのである。

 すると、「無」主義は方向転換を迫られることとなる。転換の方向性は様々だ。一例を挙げる。
①完全適用ではなく、個々の事例に則して適用する。つまり、常に何かしらの主義主張のアンチテーゼとしてニヒリズムを置くやり方である。
②「ない」と断言してしまうのではなく、「あるかないかわからない」という不可知主義の方針を取る。これは相対主義につながって行く。
③一般化するのではなく、個人の生き方として「無」主義を主張する。上に挙げた、自堕落、放蕩、無頼、耽美などとは、このあり方を指す。

 ①は微妙なあり方であると僕は思う。ニヒリズムが原理としては自壊していることが判明している以上、そもそも反論にならないし、反論として取り上げられないのではないかという気がしている。
 ②は、おおよそ僕が普段取っている立場である。しかし、これは突き詰めれば徹底的な破壊活動である。あるものの存立している基盤、前提をひとつひとつなくしていくようなもので、完成すれば床無き家に住むが如き状態になる。このことは【まとめ・7】に詳しくうだうだ書いてあるので、そちらを参照されたい。
 ③は、挙げた中では、他人に影響を及ぼすことを諦めているという時点で一番穏当な解決策かもしれない。このような生き方について僕は肯定も否定もできないが、ニヒリズムに陥ってしまった人間としては一番正直な生き方ではないか、とも思っている。

 ②をもとに、もう少しニヒリズムという思想について考えて行きたい。ニヒリズムが真実であるとするならば、それは個人の中でしかあり得ない、ということは先の話から分かると思う。つまり、何かがあると言うのも、ないと言うのも、個人の中では正当性を持ちうるのである。そして、人間の論理を運用する力には限界がある、という説をもってすれば、どちらの立場に立とうと「厳密な」議論というのは可能なのである。つまり、物は言いようとはまさにこのことで、逆に言えば、どちらの議論にも、せいぜい今いる人間が納得できる程度の正当性しかない、ということになる。ニヒリズムが辿り着く先というのは、ニヒリズムをも巻き込んだ上での「無」主義、つまり相対主義ということになるのだろうか。

 

2015 7 1