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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

【まとめ・7】 無への志向(考え事について)

 括弧内がなくてこのタイトルであればいくらでも文章が書けそうであるが、今回は括弧内にある通り、考え事について書いていく。

 単刀直入に申せば、自分がやっていることとというのは結局すべての事象を意味不明の重体の状態に差し戻すということなのではないか、そして、それは恐ろしく非生産的であるばかりか、実に破壊的な行動なのではないか、と思っているのである。

 たとえば、前回見た論理の「正しさ」についての話だって、普段は意識されないが日常生活を支える大きな基盤の一つなのである。これがすっぽり抜けてしまうことで、日常生活は一挙に不安と疑心に満ちたものとなるのである。なるはずなのだが……。おそらく誰もそうはならない。多分僕もそうはならない。問題が根本的かつ抽象的すぎて、実感が湧かないという感じだからだと思う。
 しかし、先の話は本当に日常のささいな判断さえ狂わせてしまうことになる。僕は日常を神任せに送っている節がある。別に大したことでも大それたことでもないのだが、ちょっとした2択、たとえば、手にしている携帯を表向きに置くか、裏返しに置くかということを、脳内で囁く声に従って選択している。こうした判断はまったく論理的でないからその分気楽なのである。さすがにこのような例は多くないと思うが、日常を「なんとなく」やっていることも多く、その場合でも判断は特に動揺しない。ただ、少しでも「合理的」という影がちらつくと、もうそれは動揺の対象となってしまう(はず)なのである。
 もっと大きな例では、人間には価値観というものがある。これは自分でいかに相対化しようと思ってもできない唯一のものである。なおかつ、独自の論理を用いて成り立っていることが多い。だから、その価値観を不明状態に差し戻すことで、生き方そのものを揺るがすことができるのである。もっとも、これは自分の生き方が論理的である、とどれほど自負しているかにもよるが。

 こうしたことを考えたときに、この世に論理が蔓延れば蔓延るほど、日頃僕が行っている考え事というのは(完全に他人に影響すれば)大変な破壊行為となっていくのである。

 僕は日常こうした考え事に結構多く時間を吸い取られているから、これが少しでも生活の糧に変われば有難い。こうした観点からのみ、この考え事が他人の役に立つか、ということを考えると、大変不安になる。他人はなにも真理に基づいた生活などハナから期待していないのである。まして、新しい「真理」を提案するわけでもないのに、現状「真理に見せかけているもの」とこちらが称するものを彼らは手放すはずがないのである。これでは生活の糧にはならなさそうである。
 また、自分の中でそうした破壊行為にある程度の正当性が認められるか、ということも疑問である。正当性といっても、他人に認められるということは考えず、あくまで自分が行った行為に自分が納得できるか、ということのみが問題なのである。要するに、極端な場合を考えれば、すべてを疑って疑って、結果廃墟の中にたたずんで、それで満足か?ということである。それこそ空しいのではないか。しかも、僕の目的は新しい「真理」を見つけようということでもなく、もし万が一廃墟状態になったとしても、そこから迂闊な「真理」がまた生まれてきてしまう可能性もある。果たしてそうしたことまで想定して、この行為に正当性が認められるか、というと、さっぱり自信がない。

 これらを解決するためには、適切なところのみを更地にする、という案が一番適当であろうと思う。たとえば、もめごとが起こる原因には、お互いの要求が「倫理的に」理解できないということもある。上に書いた「解体原理」をお互いの要求にのみ適用することによって、要求をフラットに、より受け入れられやすく伝えることができるかもしれない。

 しかし、そのためには「解体原理」を制御する必要がどうしてもある。いや、制御というより、「解体原理」の方に魅入られないことの方がより重要である。「どうせ全部無なのに」と思いつつ、その気持ちに全て呑みこまれずに、どうにかバランスを取っていくということである。僕という人間がこんなシチメンドクサイ文章を書かなくて済む人間だったらどんなにかよかったろうか、と、最後まで読んでしまったあなたも感じているかもしれない。

 

2015 7 1