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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

【まとめ・4】 左翼的なものへの嫌悪

 元来左翼という存在はなんだか苦手であった。なにが苦手って、どこかお花畑な感じがするところである。
 加えて、これは凡その幸せな時代に生まれた日本人がそうであったと思うが、現状でも十分幸せなんだから、これ以上何を変えるというのさ、変えてどうにかなったらどうしてくれるのさ、という感覚もあった。たとえば街頭演説をしているような人たち(左翼的な人びとに限らず)には何か切実な訴えがあるのであり、つまり彼らは何かしらの窮状にあるのである。と考えると、これは一見薄情な考えにも見えるが、それはどうなんだろうか。

 そもそも、左翼的思想には困っている人間を助けてやる、という部分があるのではないか。それは、共済という形を取っているように見えても、実際には何かしらの高低差があることも少なくない。○○してあげる、ということである。僕のような人間関係の希薄な社会に生きる人間関係の希薄な人間からしてみれば、この形式はすでに押しつけがましくて、なんだか有難迷惑である。まあここまでの話はもちろん、彼らの知人を救おうとて活動している場合にはそれはあてはまらないが。

 話を戻そう。彼らは街頭演説で何をしゃべっているのだろうか。「助けてくれ」と言っているのだろうか。昨今崇高な理念を持ち出して理想社会を実現しようというようなことをあからさまに言う人間は(かつてに比べて)さすがに少なくなったらしい。しかし、いわゆる左翼にカテゴライズされる人というのは何かしらの社会変革を主張するのであり、ということは何かしらの理想社会が別にあるということである。社会主義共産主義が理念としてほとんど顧みられない今、はたしてそれはどんな社会なのだろうか。

 結局、傍目に見ている分には、彼らの演説には「助けてくれ」と「変革して良い社会を作ろうよ!」が入り混じっている気がするのである。よしんば彼らに道徳的な判断から手を貸そうと思っていても、それが同時に「変革しようよ!」にも加担してしまうことになるのなら、躊躇するのは当然である。逆に、左翼の人間は道徳によってカモフラージュすることで彼らの理想社会を実現しようとしている、という穿った見方もできる(その理想を支える理論がないので「お花畑」などと呼ばれてしまうのであるが)。最初のような考えは必ずしも薄情とも呼べない気がする。すると、僕はある種右翼的なのかもなあ。

 

2015 7 1