わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

実験的平和主義の構想

 今日(も)、お茶の水の街頭で反戦演説が行われていた。行くあてのない身だったのでしばらく立ち止まってぼんやり聞いていたが、実に大量の人びとが行き来するのに耳を傾ける人はだれもいない。演説の内容もやり方もつまらないのだから、無理なからぬことである。

 まずもって明確にしておきたいことだが、僕は平和主義を必ずしも支持するわけではない。現状知識があまりに足りなさすぎるので、平和主義に関してはなんとも言えないというのが今のスタンスである。それを前提にして、実験的平和主義についてぐだぐだ書いていきたい。

 さて、第二次安倍政権になり憲法改正が一気に現実味を帯びてきた、らしい。僕は自分の生活さえ現実味を帯びてこないのだからなんのこっちゃという感じだが、ともかくそれに伴って軍が作られたり、戦争が起きやすくなったりするらしい。街頭演説の主張を受け売りしているだけだし、それすら話半分に聞いていたのだから正確な理解はおぼつかないのであるが、反戦の話を聞くたびに昔から考えている平和主義の一つの在り方について考えが及ぶ。

 その名も「実験的平和主義」である。平和主義の倫理的側面を全て取り除いた上で、平和主義を、ある国家から武器を取り上げたらどうなるか、その国家はどのような立ち位置を占め、平和にどのような影響をもたらすのか、という人類の壮大な実験のひとつだと捉えるものである。我々日本人は、この考えではモルモットとしての存在である。

 これは、そもそも日本の平和主義はどのように「作られた」のか、という視点に立ったものではまったくない。現状において平和主義を維持していくならば、どのような路線が適当かを考えた結論にすぎない。

 現状、能動的に平和主義を生きる日本人はあまりに少ない。こと若者たちは無関心であると言われている。これは、平和主義がなんたるかという明確な規定のないまま、感情だけをよりどころにして唱えられているからである。戦争を経験した世代はその恐怖の記憶から戦争に反対する。若者たちには直接経験がないため、義務教育でいくら教えようと実感がないから戦争の話も現実味がなく、したがってどうでもいい。簡単な話である。
 実験的平和主義の利点の一は、僕のように政治にさっぱり興味のない人間にも容易に平和主義である意義の理解ができる点である。次に、平和主義を感覚に基づいた理解から引き離すことで、戦争を経験していない世代においても平和主義を引き継ぐことが容易になるという点。そしてなにより、国際的な場においても平和主義の明確な主張のフォームになりうるという点。平和主義は幸いにして国際関係の大義名分の一となっている。とすれば、平和主義を実験的にせよ体現する国家を戦争に巻き込むことは、大義名分の明確な否定に他ならない。とすれば、実験的平和主義を名目にして日本に平和主義を固定することは、案外日本を戦争から遠ざけることに一役買うかもしれない。といってもこればかりは夢物語であるが。

 

2015 6 9