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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

親愛ならざる論理教信者に告ぐ(対論理 第一回)

 今回は物々しいタイトルだが、内容はそれほど物々しくないよ。

 論理とは、人類が共通して持つ「筋道」であると言われている。論理的に正しいことは、論理的に考えれば誰もが正しいと思うし、逆もまた然り、ということである。その「筋道」は誰もが辿れる一筋の道であるらしい。
 正直この話も僕は眉唾ものだと思っている。僕の周囲の人間は確かに論理を有しているし、かといって「論理のまったく通用しない人間がいるかもしれない」というような悪魔の証明的な駄々をこねるつもりもない。しかし、断定が勇ましすぎる気がするのだ。人間は誰しも論理を有する。すると、論理を有しないものは人間でないということになる。なにか不審な感覚を抱くのは僕だけなのだろうか。

 この、断定に対する不審な感覚が全体を貫いているのである。

 それでは、人間を論理で断じることはできるだろうか?人間を分析する際にどうにもうまくいかないのは、感覚や感情の生じるわけを探るときである。もちろん、こんな時に人は悲しくなる、というのはなんとなく想像がつくが、それではなぜ悲しいのか、悲しいとはなんなのかと考えたところで、わからない。
 では、論理はなぜ正しいのだろうか。正確には、正しいと感じるのであろうか。論理を確実に有するのは、先の話を援用するにしても人間のみである。つまり、論理の正しさというのは、もちろん人間の外にもあるのかもしれないが、人間の内部にしかないのかもしれないのである。そして、もし人間の内部にしかないとすれば、論理の正しさは単に感覚によって支えられているだけの可能性がある。非合理な感覚によってである。
 また、結局のところ、論理だけでは人間は動けない。論理が感覚より優位にあるというのは誤解である。論理は寧ろ、他の感覚に比べて弱いと思う。朝起きができない、禁煙ができない(これはまだ無縁だが)、要は、どうにも意志が弱くて、という状態である。これは、他の人間に対する時でも同様である。論理的に正しいからと言って、相手を納得させることはできないのであるし、それを責めるのもお門違いなのである。人間は、そもそもが非論理的な存在である。

 論理は神ではない。論理の完全性を疑わない者は立派な宗教徒であり、非合理である。論理の完全性を笠に着て、他人にまでその「正しさ」でもって迫害を繰り返すのであれば、それはまさに非合理で非道な行為であると言わざるを得ない。

 論理に関する数々の気前のよい断定、無邪気な信仰を省みないままにすれば、人間の存在を迫害し、自然の叛逆を招くことになりかねない。論理は人間の持つ道具であるし、実際諸々のことにかなり有効な武器である。その恩恵に感謝するのは当然であるが、論理に対して過大評価をし過ぎないようにするというのもまた必要なのではないだろうか。 


 今回はあまりまとまりを得なかった。これは今後も検討していくべき課題なのだろうなあ。

 

2015 5 5