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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

ニヒリズムの表明 その2~日本の、私のニヒリズム~

 「私の個人主義」っぽくしたかったが、どうにもうまくいかないのである。それはともかく、本題に入ろう。

 

 前回、ニヒリズムとはなにか、というようなことをつらつら書いた。ニヒリズムとは「一切皆無」であり、既存の枠組みの否定であり、自堕落や頽廃ややけっぱちと関連がある、というようなことだった。ニーチェで有名になったが、日本のニヒリズムニーチェのそれとは必ずしも一致しない、ということまで書いたと思う。今回は、それでは日本のニヒリズムとはなにか、そして僕が勝手に思い描いているニヒリズムとはなにか、ということを書いて行きたい。と言っても、日本のニヒリズムですら僕が大上段に語れることは何一つないので、自分のニヒリズムを軸に書くよりほかない。

 

 自分のニヒリズムとは、「飽のニヒリズム」である、と思っている。もとよりニヒリズムは上流階級の陥る思想であったらしいが、ニヒリズムに陥る人間というのは、基本的に衣食住の満ち足りている人間なのである。ニヒリズムの大家とも呼べる釈迦だってもとは王子であった。衣食足りて礼節を知ると言うが、衣食足りてニヒリズム、という人間も少なくないのだそうだ。まさしく贅沢な悩みである。
 と申せば、現代日本も(といっても、ここ数十年のことであるが)飽食の時代である。一億総中流と申せば一億総ニヒリズムに突入しても何の不思議もない。価値観の多様化も一億総ニヒリズム化の流れに棹差し、人々は信じる物を失いかといって経済的幸福にも疑問を抱く、といった具合なので、現代日本のニヒリズムがもし問題になるとすれば、それは相当に根深い問題なのである。
 そもそも日本人はニヒリズム的であった、という指摘もある。仏教は「一切皆苦」と教えるあたりニヒリズムとかなり親和性があり、辻潤もたびたび話題に挙げている。仏教以前の神道だって、多神教であり、一神教と比較して強い信仰というのには至らないのではないか。欧米の文化は自然を服従させる文化であり、日本の文化は自然に服従する=自然災害に遭うたび自分たちの無力を感じる文化であると言う人もいる。ここに書いたのはすべてどこかで拾い読みしたものなのであてにもならないが、特に日本人が無力感を根底に持っているというのはなんとなく腑に落ちる話で、とすると、日本人が衣食住以前のニヒリズムにあった、と考えるのも不可解な話ではない。

 

 それらはいちおうバックボーンにあるとして、しかし僕が思いっきりニヒリズムに陥っている理由は、やはり「飽」というところにある。幸いにして、産まれてこの方衣食住には不自由してこなかった。そして未だに親の庇護下にあるため、明日の衣食住のためにあくせく働くといった経験もない。つまり、つまらぬ考え事に費やす時間が膨大にある、ということであり、性格いかんによっては容易にニヒリズムに陥る環境に(幸か不幸か)あった、ということである。
 ニヒリズムに陥りやすい性格とはなにか。それは、怠惰や面倒くさがりといった性格である。面倒くさがりの人間は、できるだけ物ごとをしたくない。できればやりたくないので、どうしてもやんなきゃだめ?などと言う。それを内面に問えば、自然に事物の理由を問うことになる。つまり、「なぜ~しなくてはならないのか?」という質問が完成する。
 これは哲学の基本姿勢とも呼ばれる「なぜ」の、最も不純な生成法のひとつだろう。ともかく、基本的になにもやりたくないもんだから、次から次へと「なぜ~しなくてはならないのか?」が生まれる。そして、都合よく「一切皆無」などという思想にたどりつけば、すべての「なぜ~しなくてはならないのか」に「する必要なし」という解答が可能になる。これは衣食住足りていることが前提の話で、明日の生活のために日々働かなくてはならないとすれば、そして、それで忙しくて考える時間なんかないとすればなおのこと、たどりつくはずのない答えである。
 もうひとつあるとすれば、それはロマンチストである。これは思想家になってしまうまで考えつめてしまう人の話であるが、つまり、一度純粋に価値観を信じた人でなければ、痛烈なニヒリストにはなれないんじゃないか、ということである。幻滅ということを挙げていたニヒリストがいて、幻を一度信じて、それに裏切られショックを受ける、ということが、ニヒリストへの第一歩なのかもしれない。逆に言えば、そうでもなければニヒリズムを突き詰めるにも至らないということで、各々の持つ「絶対値」の問題というか、極右から極左への転向というか、そんな感じのことだと思う。

 

 ニヒリズムの魔性は、否定することができない、という点にある。ニヒリズムの肝は、あらゆる価値観は絶対でない、ということであり、これは価値観がひっくり返った経験を持つ人間ならだれでも思ってしまうことである。なおかつ、それについて考えつめれば大体そういった結論にたどりついてしまうので、ニヒリズムに対しては忘れるなり超越するなりするしか対策がない、と言われている。

 

 自分のニヒリズムについてだが、一度衣食住の不自由な状況に身を置いてその思想がどれほどの強度のものであるか試してみたい気もする。それで思想が洗練されるということもあると思う。一回くらい極貧の一人暮らしでもしてみた方が良いのかもしれぬ。
 しかし、同時に、この時期だからこそ突き詰められる思想なのかもしれない、とも思う。親元から独立してしまえば、衣食住は自分で働いてどうにかするしかないため、純粋に時間も減る。考えつめるべき思想なのかもよくわからないし、ニヒリスト達の最期は大体悲惨なものであるが(それは一般的な価値観に立って判断しているためであり、当人たちにとっては最良の死に方だったのかもしれないが)、現代日本にニヒリズムが現実主義――リアリズムという名で蔓延していることは僕も強く感じることであり、その解決のために考えをめぐらすというのは日本人のためになり、ひいては生活の糧にもなったりはしまいか、と思っていたりもする。どうするかは未定であるが、僕がニヒリズムについて語り得るのは大体こんなところである。

 

2015 4 13