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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

幻想小説「現状」 第五話

 僕は人造人間なのではないか、と、水槽に身を沈めながら僕は思っていた。

 

 もちろん、自分がサイボーグであるとか、そういった類の主張ではない。もしそうなら、現にこうして水槽に浸かってなどいられないはずだし。
 そうではなく、人造人間である。つまり、人が造った、人に造「られ」た人間である。思案の主眼は、主体性の有無である。
 生まれる、というのが受け身の行為であることは有名な話である(英語でも I was born. と、受け身の形となる)。少なくともこの時点では、生は受動的である。だからといって、世の人が人生のすべてを受け身であると捉えているかといえば、大体の人間は主体性というものを謳歌しているわけで、どこかのタイミングでいつのまにか主体性を獲得したのである。それはいったいいつなんどきなのだろうか。

 

 唯物論的に考えると、身体は完全に受け身なのだから、身体を素材としたもの、たとえば、脳味噌で考える思想などには、主体性の生まれる余地などないように感じられる。しかし、細胞は刻一刻と死んでいき、新しい細胞は、食べた物などを元に作られた、元あった細胞とは関係のない細胞である。ここには同一性の問題も生じてしまうが、とりあえず後で触れるとして、身体は徐々に親からもらったものとは別物に「浸食されていく」のである。
 それも、食物がすべて親から与えられているうちはまだ親の支配下にあるとも言えるが、たとえば買い食いやら友達と外食やら、親のあずかりしらぬところでの食事が加わってくると、そこから生まれた細胞には、親は一切関わっていないことになる。そう考えると、僕の脳細胞は、親のあずかりしらぬ細胞が3割ほど含まれているのではないか。
 ここまで来ると、果たして僕の思想が完全に受け身であるかがあやしくなってくる。親のあずかりしらぬ細胞の考えたことは、極論すれば親はなんの関係もない。加えて、僕が勝手に読んでいるアヤシイ本やサイトなども、親が読めといったわけでもなく、パソコンの履歴をチェックされていない限りは読んでいることをおそらく知らない。思想は外的刺激によって発生するわけで、刺激が違えば生まれてくる思想も違ってくる。素材が同じでも、違ったものに触れれば出てくる思想も異なってくるわけで、ますます親の知らない得体のしれない思想を抱くことになる。
 ここまでは、僕の過去の買い食いや友人との外食、それに本やサイトなどを、親とはまるで無関係の、ランダム要素として捉えてきた。
 しかし、本当にそうだろうか。わかりやすく言えば、嗜好も脳味噌によって決まるのであり、そうだとすれば僕の食や読み物の選択もランダムではなく、脳細胞くんセレクトの商品ということになる。こうだとすれば、問題は再び脳細胞の純粋さの話題に帰ってくるのである。嗜好は環境によっても変わるが、環境も、少なくともこれまではすべて親が与えたものであるから、僕の嗜好にはすべて親が絡んでいるとみてよいとも言える。
 さて、脳細胞のうち、親が関わっているものの割合を、そのまま親が僕に与えている人生の割合を示すとする。嗜好などに親が関わっていないとすれば、きっと僕は徐々に親から独立し、主体性を獲得することができるだろう。嗜好がランダムでなく、親が関わっているとすれば、僕はいつまでたっても親の支配下にある。親の寡占どころか、独占と言ってよい。これではいつまでたっても主体性など手に入るはずがない。

 

 なぜこんなことを長々くだくだと述べてきたかというと、主体性がない限り、自分というのはとどのつまり親の一部分なのではないか、と思うからである。つまり、僕と親は完全な他人でないどころか、完全に他人ではないのである。
 とすると、通常他人に感じるような気遣いというのも、親には無用ということになる。子に対しても同様である。お互い殺されても文句は言えない。はっきり言って修羅的状況だが(これを日本語で修羅場と言う)、考えてみると親子関係というのは甚だ不可思議なのである。
 子どもは、ある年頃になると、急に親孝行というようなことを口走り、親に気を遣うようになる。僕はそれを非常に不自然なことだと感じるが、おそらくそれは、親が絶対でなくなる瞬間なんだと思う。そのとき、親から子は独立したのである。ところが、上記のようなことを考えていては、いつまでも親が絶対であり、独立など望むべくもない。たとえ親と思想が対立しても、それは親がもともと抱いていた矛盾が表出したに過ぎないと思うのである。
 いずれにせよ、本来ならばこんなことを言う「子」は「親」に撲殺されていてもまったくおかしくないのであり、現在のところそうなっていない現状と親に感謝するとともに、おそらく口論の原因のひとつであるこの部分について、お互いに理解しあえることを祈るばかりである。

 
 親と口論(といっても、お互い多少は怒る、といった程度なのだが)(いや、向こうはとても怒っているのかもしれないが)になった日の風呂というのは、こんな塩梅で長風呂になりがちである。

 

 

追記:ちなみにこの問題、社会的な視点から眺めるといくらか見え方も変わってくる。
 まず、親が子を殺さないのも、子が親を殺さないのも、法律でそう決まっているからだ、と言える。法律は日常の倫理を多分に採用しているから、世間の倫理も法律とたがわない。
 また、いつから主体性を獲得するのか、という問題だが、ハタから見ている限りでは、成人式(あるいは元服)というのがそのタイミングであるようである。ひとりで社会と等価交換の関係を結びはじめるのがこのタイミングであり、それはとりもなおさずあるひとりの人間が社会の一員となることを意味している。成人、もしくは大人とは何か、ということについてと、すっかり忘れていた同一性の問題については、今回が長くなり過ぎるので次回に譲ろうかと思う。