わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

幻想小説「現状」 第三話

 毎日のように水槽に入っていると、たまに、無性に、波を立てたくなるときがある。
 それは小さな波ではなく、大きな、身体を揺らして作る類の、あるいは小学校でみんなしてプールを同じ方向にぐるぐる回り作りだすような、身体の持って行かれそうなほどの大きな波である。

 

 しかし、震災以降、どうにも心苦しいので、そんなこともあんまりやらない。震災はどうにもグロテスクで、見てられない。
 死を見つめる、なんて大上段に振りかざして、結局のところ、死体の山なんか、とても見られたもんじゃないのだ。グロ画像だって相変わらずだめだし、血を見るのさえ嫌なんだから、もってのほかである。つまるところ、死を見つめる、の、死、というのは、概念的なものでしかない。概念的なグロテスクさなら、まだどうにかなる。ただ、それはリアルじゃないし具体的じゃないし、現実から乖離した、楽しい妄想である。

 

 参った。結局五十歩百歩ということか。それとも、葬儀屋に勤めた方が良いのだろうか。きっとそういう問題ではない。

 

 死を見つめない人間は馬鹿だ、阿呆だ、とずっと思っている。それ以上に、それをしないで生きる人々を大変不思議に思っている。しかし、必要以上に死を見つめないのは人間の古来の知恵でもある。毎日死ぬ死ぬと思ってやっていると、早晩ノイローゼになるだろうし、ならないとすればつまるところその死に具体性もリアリティもないということだ。それを楽しい妄想だと言っているのだ。

 

 参った。馬鹿は圧倒的に僕の方だ。死が云々というのは僕の柄じゃないのかも知れない。音楽家は政治に関わらないでほしい、と思う。水槽で水面を叩き、ぱしゃぱしゃとやっていればよいのだ。哲学だって同じだ。身の丈に合わない思想、つまり自分という人間の延長上にない思想というのは、音楽に反映させるのも、そもそも持っているのも慎んでほしい。しかし、それを持ってしまったのもまたその人間ゆえだ、と言われたら、困ってしまう。

 

 水槽から上がり、眠い目をこすりながらこんな文章を書くのも、不毛である。徹底できないことが大変不満である。やめてしまえという声も上がるが、やめられない。つまるところやりたいからやっているのだ。分相応に、やれるところまでやればいいや。自分を大人物かなにかのように勘違いしているのがおかしいのだ。やれるだけ徹底すればいい。底はそこなのだ。自分の底が知れる。意欲的に無意欲な人生を生きればいい。ここんところすべてが投げやりだ。もっと幸せな人生もあったろうになあ。選んだのは自分なのでしょうがない。過去の自分が現在や未来の自分と無縁であるとしても、道だけは途絶えず続いている。それが因果というものさ。なんて因果な。

 

2015 3 16