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わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

震災追悼式宮城県遺族代表・菅原彩加氏にまつわる違和感

 いつのまにやら、この女性について、様々な疑惑、批判などが飛び交っているらしい。
 僕はテレビで流れていたらしい当のスピーチをリアルタイムで見ていたわけではないが、ネットがどうも騒がしいので顛末を知ることとなった。
 主に槍玉に挙げられているのが当日の行動に関する発言の矛盾、豪遊疑惑、スピーチの内容の脚色疑惑などであるが、僕が考えたいのはそこではない。
 スピーチの内容はここでは書かないが(興味があったら調べてみてください)、相当に遣り切れない内容なのは間違いない。その遣り切れなさとは、いわゆる「業の深さ」であって、その悲惨さゆえに聞いてらんないし、まただからこそ語る価値もあると思うのだが、問題はそれの捉え方の問題である。

 

 この類の話は、どう頑張ってみても「美談」になんかなるはずがないのだが、これを美談として捉える向きがあるらしい。行為そのものは醜さそのものであり、美しくもなんともないので、美しいとすればその後の姿勢=「それでも、生きて行く」的な部分、なのだろうか。しかし、それさえも、果たして美しいといえるのだろうか?

 

 それでも、というのは、自分は罪業深いのだけれども、ということだろう。だけれども、生きねば、ということらしい。個人的にはこの持っていき方もよくわからないといえばわからないのだが、それは果たして美しいことなのか。死にたくなるほどの罪業深さから、それでも生に向かう正の方向性の動きは認める。にしても、それで罪が赦されるわけでもない。軸は罪業深さにある。軸が罪業深さにある限り、スタートは負の値である。そして、終着点もおそらく負の値だろう。このことは、この罪が赦されない、と考える限りは動かない。そして、このことを語る、ということに贖罪のニュアンスが含まれるとすれば、少なくとも彼女自身、まだ赦されたとは感じていない、ということである。
 美談というのには、正当化の要素が含まれる。というか、正当化のない美談など存在しない。美談とは、ある行動を「美しい」、つまり、美の感覚のもとに存在させることであり、美の感覚は価値基準のひとつである。
 とすれば、正当化しえないこと、正の値を取りえない行動は、美談として成り立たないということが言える。この件に関しても、この後どれほど素晴らしい生を生きてもその罪が赦されることがない、という視点に立てば、美談とは捉えられっこない。

 

 これを美談と捉えるのも嘘くさいし、美談として語るのもどうかと思う。どうしようもなかったとはいえ、到底正当化しえない罪業だと思う。己の業を抱きながら生きる、ということは、不可能なことでもないと思う。多かれ少なかれ、誰にだって罪業はある。それを迂闊に正当化しないことが、「生き方の最適化」につながると思うのだが。
野坂昭如の「火垂るの墓」は、これに近い状況であると思う。まだ小説の方を読んだことはないが、業の深さという主題があるとしたら、それにどのように対したのか、気になるところではある。)

 

2015 3 12