わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

軽い書き物(3) ~重い書き物(3)の前座というか準備~

 欺瞞がとにかく大嫌いなのである。それはトラウマ的恐怖にも似た感覚である。いったい僕の幼少期に何があったというのだろうか。

 

 人々は「」を有していて、『』(=社会の枠組み)に近づけるのが大人になるということかもしれない。社会に限らず、なんらかの共同体に所属し始めるとき、「」と『』の衝突はほとんど避けられない。つまり、その共同体に「馴染む」ためには、「」を『』にすり合わせるという作業がどうしても必要になるのである。
 その段階で、欺瞞は生じる。つまり、元来正しいと思わないものを正しいと思い込み、元来美しいと思わないものを美しいと思い込む、感覚の更新が行われるのである。なぜか。感覚が判断基準であるからである。判断基準は行動を規定する。『』に沿った行動をするために、である。
 ところが、感覚は根強い。元来と異なるものに対しては違和感が働く。違和感は不快感の一種で、なにかのズレに対して働くものである。この不快感を抑えるために、欺瞞は生れる。つまり、自分に対して枠組みにあてはめるべく無理強いをするのである。
 この行為を恐ろしいと感じない人間が、まったく恐ろしい。そして、『』に沿った「善の感覚」を疑いなく信奉することは、それ以外の人間に対する迫害に他ならないことを、よく考えてみたい。

 

 「」や『』を強固にする要素とはなにか。それは日々それをなぞること(=習慣性)であり、もう一つは「善の感覚」に他ならない。
 少数派の人間は存在自体がすでに目障りである。慎んで行動するのがよい。多数派の人間は存在自体がすでに強圧的である。その自覚が欠けると、社会は容易に硬化する。どちらにせよ、自らの「善の感覚」に疑いを持たないことが、「」を強固にし過激な衝突を生む原因である。まずは自分の持つ「善の感覚」に疑いの目を向けないことには、生きやすい社会も、生きやすい人生も当面実現しそうにない。自戒としても、これをよく肝に銘じておく。

 

2015 2 24