わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

卒業に至りてバカをやらかす

 この期に及んでバカをやらかす

 

 バカをやらかしてしまった。卒業文集には「たる砂漠 ほか3編」とある。つまり、文章塊が4つばかし載っていなくてはならないのだが、3つしか載っていない。つまるところ「ほか」と「全」の使い分けをうっかり間違えたのである。自分という人間が残念でならない。
 ということで、ここにもう一編の文章を載せることで、その補足というか、完成を期したい。といっても、卒業文集の3編はポエムと見紛うべき出来損ないの散文であったから、ここの文章くらいは些かながらも論理的な文章にしたいとは思っているが、実際どうなるかは知らない。

 

 最近一年というのは、自分の中の倫理観の破壊、および、「うるわしさ」に対する闘争にすべてを捧げてきた一年であったように思う。これはまさに「敵なき闘争」であって、誰と戦っているのかまったくよくわからないまま、理論のドームの建築だけが粛々と実行されていくという、まことに奇っ怪な一年であった。
 しかし、思い返してみれば、そのように完全に閉じた目的で自らのほぼ全労力を費やすということは、僕の有史以来幾度となく繰り返されてきたことである。データをトランプを用いて設定し、空想の選手名鑑を作ったり、紙相撲の力士を作り星取表を書いたり。その延長上に音楽を作るということがあり、文章を書くということがあり、哲学じみた夢想をするということがあるのであれば、それらの行為に対する他人の存在がいかに小さいかがわかる。周囲から人間がだれもいなくなろうが、目もくれず、ただ事に没頭しているだろうというのは、目に見えている。他人の存在は限りなく小さい。
 そう考えると、いかに他人に影響された人生であっても、自分なしには存在しえなかったなあ、という、至極あたり前のことが想起される。「滅私奉公」という言葉に代表される自分を社会化するメカニズムというのは、けっこう不自然であるし、規範化されているのも不思議である。僕ほど精神ひきこもり特性の強くない人間にしてみたって、「何の特徴もない社会の歯車」(歯車にだって特性はあるのだ)になろうというのは、自分という人間をまるっきり通過してしまっている感がある。他人に感謝する前に、自分という存在を見つめるのが良いと思う(それは現状と未来の最適化に役立つという意味で)。他人への感謝はそのあとに来るものだろう。感謝ばっかりしやがって。

 

2015 3 6