わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

東京大空襲の日にあたって、戦争教育について

 東京大空襲の日だということで、朝日新聞天声人語にも、例によってそれらしいことが書いてある。
 朝食(昼食?)を食べながらそれをぼんやり眺めていたのだが、案の定それは「感情的な」「民衆の視点に立った」ものでしかない。

 

 個人的に、論理も感覚のひとつである、と思っている。感情にも、相対的に強い感情、弱い感情というのがあり、論理がある種の感情に追い出されてしまうのも、まあ致し方のないことだとは思う。
 だからこそ、小学生に戦争教育を施す際に、トラウマ的な恐怖を感じさせる教育内容を用いるのは、論理を停止させ思考停止を招くだけであり、さっぱり教育効果はないと思うのだ。むろん、ある種の「教育」が洗脳的ななにかを含むのは承知の上だが、戦争教育の目的が反戦であるならば、洗脳というのはあまり得策でないと思う。依って立つものの問題である。ただ恐怖だけの上に立って、脊髄反射的に「戦争はよくない!」と叫ぶのであれば、それを上回る恐怖、あるいは他の感情がやってきたときに、その土台もろとも飲みこまれてしまうのは目に見えている。0か1かの問題で、戦争断固反対という単純思考では、簡単に戦争断固支持に転化してしまうということもありうるのである。
 反戦を基本とするかどうかあともかくとして、仮にそうするとすれば、戦争教育というのは、論理的な準備をまず児童に促すべきである、と思う。といっても、小学生に論理的な話をしても理解されない、というのであれば、感覚的なアプローチに頼るしかない。しかしそれも、思考停止を招くようなものではなく、鮮烈さや凄惨さという点で今の教育から何段階も落とした、感情的に弱いものにすべきである。そして、中学生なり、論理の理解できる段階になったら、改めて論理的な基礎付けをすべきだと思う。しかし、個人的には反戦の論理的基礎付けというものに、思い当たる節があまりない。これは、反戦がいかに論理とは違った場所に依って立っているか、ということの証拠である。

 

 戦争教育でもうひとつ問題なのは、それが大体において「民衆の視点に立っている」ことである。小学生や中学生というのは、まだ未来にどう化けるかわからない存在である。中には政治家になる人間だっているわけだ。戦争の政治的な側面を教えないことには、ゆくゆくは政治的な戦争賛成派に庶民の視点からした反論をする、という、まことに噛み合わない議論をすることになってしまう(というか、現状がそうであるようにも思う)。
 基本的に、政治的な視点というのは長期的であり、民衆の視点というのは短期的であると思う。それはおそらく、民衆が政治に対して受け身であることが深く関係しているのだと思う。民衆がいくら将来の計画を練ろうが、政治的な何かで状況が変わってしまえば、すべて意味がなくなる。そして、しまいには民衆の視点というのは、単なるそのときどきの政治に対する反応にまで単純化されてしまう。
 思えば、日本人は昔からこうだ。お上がいて、政治は彼らがやってくれる。自分たちは政治にかかわることなんかできないし、現状を甘んじて受け入れるしかない。良くも悪くも、自分たちに政治の責任はないのだ、と。戦争はいやだ、と主張しつつ、政治に責任を持とうなんて気はないのである。民衆はいつだって被害者なのである。戦争の教訓を民主主義につなげる、というあらすじだってできように、戦争教育が被害者的な視点で書かれ、うら若き小学生がその立場をインストールするようでは、永久機関的に民主主義など望むべくもない。

 

 それらの結果として、日本人は戦争にあまりに無知になった。これでは、「平和ボケ」と呼ばれるのだって、さもありなん、である。

 

2015 3 10