わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

期末最終日に向けて② (明日のテーマは「なんのための哲学だ!」です)

(転載時注:このとき、私は人前でちょっとしたお話をする機会を得、それが明日に迫っていたのに、突然気がついたのであった)

 

 ということで、私はなんの準備もしていないのである。別になにか具体的方便を用意するつもりはさらさらなかったのであるが、頭の中の整理をのんびりやる算段であったから、寝耳に水という比喩もいいところで、ほんとに叩き起こされた気分である(もちろん日付を誤認した私が悪い)(ちなみに今日私は試験に寝坊してしまった)。
 ということで、このシリーズも惜しまれながら最終回である。誰に?最後というのは遍く惜しまれるものである。と、私は信じたい。

 しかし惜しまれない最期というのもあるのかもしれない。たとえばそれは身寄りのない老人であったり、孤独なホームレスであったり(ホームレスだから孤独である、というのは全く成り立たないらしい。)、しかし、そういう人たちであっても、ちゃんと埋葬され供養されるのだから、日本というのはまったく良い国である。
 私は時折、もし自分が世間との交流を完全に断ち切った人であったら、ということを空想する。すくなくとも生者には自分を知る者は誰も無いとして、そのとき、たとえば誰かが悲しむから、という理由で生きるのは不可能になる。つまり、他者との関係の中で生きていくのが不可能になり、完全に自分の中に生きる理由を見出さなければならなくなるのだ。
 独我論、という思想に、中三のころの私は取り憑かれていた。すなわち他人とは幻想であって、この世に存在するのは自分しかいない。さてどうしよう。そんなことで延々悶々としていた記憶がある。
 確かに独我論という思想は否定のしようがない。ただ、私にとって不可解なのは、「自分すら存在するのか?」という問題が置き去りにされているということである。かつてのデカルトの「我思う、故に我あり」というのは、少なくとも現在の私にはどうも腑に落ちない。それは、おそらくは「ある」ということに抱いている曖昧な感覚が理由なのだろうが、しかし、「ある」とはいったいどういうことなのだろうか。
 それは「認識されるもの」という意味なのか(=唯心論)、現前としてそこに「存在する」ものという意味なのか(=唯物論)。あるいは。
http://ja.wikipedia.org/…/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82…
 ウィキペディアの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」というページに曰く、「(観念論的な立場や)独我論的な立場などを取ってみても、その意識や夢にあたる「何か」があることは依然として認めざるを得ない。」と。これがデカルトの言葉の意味するところの詳細だろうが、なんとも腑に落ちないのはなぜだろうか。

 わからない。

 まったくまとまらない私なのでした。明日来てね。どうなるかわからんけど。お待ちしております。

 

2014 3 10