わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

平和を考える

 いささか時候はずれの感はあるが、平和について考えてみたい。

 平和のありがたさは世の人の知るところである。戦で武功を立てたいというような「もののふ」もさすがに近頃は姿を消しただろう。誰も戦は望んでいない。
 時に、ネットでは「右傾化」と呼ばれる現象が見られている。彼らとて戦は望んでいないだろう。国粋主義のロマンに酔わされている人も中にはいるのだろう。それは無邪気と言うほかない。それが日本を戦争に導いた「一因である」のは紛れもない事実である。
 しかし、繰り返すが、彼らとて戦は望んでいない。外国の侵略を恐れたり、いくぶん被害妄想的に日本の内部崩壊を恐れたり、いずれにせよ「日本」という国の崩壊、すなわち現在の「平和」の崩壊に対し、どこか危機感を抱いているのである。
 さて、平和はどのように得られたのだろうか。日本の場合、戦後に制定された平和憲法による部分は確かに大きいだろう。それに加え、日本人も自発的に戦争を「トラウマ化」してきた。教育は完全な反戦志向である。反戦志向の思考回路を植えつけられてきた子供たちは、必然戦争を望むはずがない。内外から「日本は戦争を仕掛けてはいけない」ということが徹底されて刷り込まれたのである。
 確かに、自分から仕掛けない限り、滅多な事で戦争になることはない。しかし、平和憲法は外部から攻められたときに圧倒的に無力である、という欠点を持つ。「ネトウヨ」と蔑まれる人たちのうちには、この部分に懸念を抱いている人も多い。つまり、これまでの平和は、いわば諸国の「好意」に支えられた「偶然」であり、有事の際にはいつ攻め滅ぼされてもおかしくない、と。だから、やられたらやり返す。むしろ、やられる前にやってしまえ、と。人によりどこまで主張が激しくなるかはさまざまである。

 さて、もう一度元の問いに戻りたい。いったい、平和はどのように得られたのだろうか。これまでの平和は、9条だけで成し遂げられただろうか。
 9条がこれまで平和にもたらした役割は非常に大きい。しかし、僕としては「これまでの平和は、いわば諸国の「好意」に支えられた「偶然」であり、有事の際にはいつ攻め滅ぼされてもおかしくない」という主張が、どうもリアルに感じられてしまう。では、この「好意」はどのように得られたのか。
 それは、日本が戦後獲得した国際上の「立ち位置」に関係してくると思う。日本は戦後、「平和国家」となった。平和を至上の目標としている国際連合にとっては、ある種「平和の象徴」となった日本を滅ぼしてはいけない、という認識があるのではないか。日本は、いわば連合国の「錦の御旗」である。平和主義を掲げる限り、連合国から潰されることはない、のかもしれない。
 しかし、それにしても、国際連合なんか知ったこっちゃない、という国からの攻撃は避けられない。連合国から援軍があるかもしれないが、助けてくれないことも十分考えうる。9条もかりそめのものであり、国際関係にたてられたひとつの「仮説」に過ぎないのだ。

 我々は、モルモットであることを自覚すべきである。しかし、我々はマシなモルモットだ。「平和主義の実践」という、比較的マシな実験に使われているからだ。確実に虐殺される運命にある、というわけではない。
 だからこそ、日本が「モルモット」から逸脱したとき、日本の平和は誰からも保証されなくなるのである。軍備もヘイトスピーチも、平和主義からかけ離れていくものは国連から不快に見られて当然である。無論「モルモット」であるというのはまともな独立国の在り方ではない。しかし、独立国たるべきだ、という主張をする前に、日本がいったいどのような使命を背負っているのか、そして、ほんとうに独立国になるというのがどれだけ大それたことなのか、よくよく認識すべきである。そのとき、日本が今後どのように世界に存在するべきか、ということも、同時に見えてくるだろう。

 

2014 10 31