わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

重い書き物(2.2)~脇道の続き。イスラム国関連、その他~

①自己責任。ただでさえ意味の捉えにくい言葉だが、あの2人を否定的に捉える文脈で使われる時のような用法の時、この言葉には少し新たなニュアンスが加わる。
 自己責任である、という表現の言い表したいところとは、結局、勝手な個人の信念で行動し国民全体に迷惑をかけた彼らは一方的に悪いのであって、決して美談で語られるべきことでもなんでもない、というあたりだろうか。要するに、まったくもってハタ迷惑である、ということだろう。
 ともかく、彼らはやりたいように生きて死んだ。何か信念があったのかもしれない。特に、ジャーナリズムや人道支援のために彼の国に渡る人々は、間違いなく行動に値するだけの信念が自分の中にあるのだと思う。だから、それを「我がまま」であると評するのは、ある意味で正しい。彼らの善の感覚と評する人々の善の感覚にズレがあった場合、彼らの行動は自分勝手に映るのである。その点では、「迷惑である」という感想を持つのも無理はない。
 「自分勝手」に生き、死ぬのは勝手である、という人々がいる。しかし、それが許されるのも他人にさしたる影響がない場合のみである。あまりに強い影響を与える=変化をもたらす(たとえば歴史的に)場合は、それが「悪」影響だとみなされたうえで、迷惑度が、個人が迷惑をかける許容値を超えたとみなされ、社会的には赦されない(それも社会が迷惑を被ったと感じているに限っての話だが)。具体化すると、もしこれで日本がイスラム国のテロに巻き込まれ、ゆくゆくは第三次世界大戦でまた大変な被害を被ることになるとしたら、彼らの行動はそのきっかけとして大変後世の人間に迷惑がられるだろう。当人の心情を察するに心苦しいが、当人はもういない。甲斐ない空想というほかないだろう。生きているうちには、社会にある程度以上の「貢献」をしようとするならば、死後墓を発かれ死体に鞭打たれても仕方がない、という覚悟が必要なのであろう。

②新聞に、丸木夫妻の「原爆の図」の記事が載っていた。芸術が、ひとり(ふたり)の人間を超えて政治的や思想的に利用されるのは、まったく個人的に、見ていて甚だ腹立たしいことであると感じてしまう。
 芸術家には、何かを見聞きしたとき、「絶対に表現しなくてはならぬ」と感じることがあるらしい。そういった話を割とよく聞く。おそらく「原爆の図」についても、あるいは戦後における戦争の悲惨さを伝えるという目的で作られた戦争関連の芸術作品についても、そういったことが言えるのではないか。
 彼らの創作意欲、というか義務感、強迫感を支えているのは、決して政治的、あるいは思想的な正しさではない。恐怖である。本能的に、二度と見たくないと思った光景をみないために、逆説的ではあるが、絵として、活字として、それらの光景を留めて、後世への抑止力としたのである。現実化しないために、架空の、そして未来においても再現可能なもので、それを伝えようとしたのは、人間の本能的な危機回避能力の現れとも言える。後世への働きかけは、このような本能的な部分で、最も強い。
 それを、政治的や思想的な何かにすり替えるとき、明らかな変換が起こっている。政治や思想というのは、何かをより良い状態にしようと欲するがために生れるものであるが、恐怖にそんな心理はない。恐怖はただ恐怖である。その反作用として、つまり、恐怖からの逃避として、はじめて良い方への志向(すこしでもましにしたい)が生れてくるのである。政治や思想は反作用的であり、あくまで本質は恐怖であるということが忘れられ、作品の政治・思想的な側面が強調されるばかりでは、「うそ」があると言わざるをえない。
 さらに、恐怖は個人の感情であり、政治や思想は「正しさ」を伴う限り普遍的なものである。ここにも「うそ」がある。芸術が「うそ」に使われてなんぼのものだろうか。「うそ」をつかないからこそ軋轢が生れ、そこに芸術が生まれるのだろうと思うのだが。そんな「正直の産物」を「うそ」に使われるのは、まったく遣り切れない。それどころか、圧倒的な政治的思想的「正しさ」の前では、「うそ」の存在にすら、その作品の作者ですら気づいていないということがあるとすれば、まったく暗澹たる気持ちになる。
 
 僕は、どうやら「うそ」、というか欺瞞というものに大変いらだち、恐怖を感じているらしいということが、最近の研究で分かってきた。その原因やいきさつは現在調査中である。

 

2015 2 12