わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

軽い書き物(2)

 18ももうすぐ終わろうとしていて、まあといっても19になるだけなのだが、せいぜい年相応には、人生というものを考えてみたりもする。
 も、というか、最近はそればかりだ。考え事は現実で生活する時間を奪う(無論勉強も含めて)。自堕落と考え事に現実の全ての時間を費やしているのは、楽しくもあり恐ろしくもあり。ともかく、そんな中で、少しずつではあるが答えらしきものが固まってくる。きた、ではなく。まだ固まりきっていないので。

 結局のところ、善の感覚を捨て去るのであれば、社会の役に立ち、かつやりたいように生きるというのが一番楽な生き方でないかとも思う。
 社会の役に立つ、というのは、社会を織りなす他人と、自分との、等価交換の原則に基づいた関係を壊さないためである。これがなくては生きて行かれぬ。
 そして、やりたいように生きる、というのは言わずもがな。善の感覚を全て捨て去ったあとでも、やりたいことというのは残りうる。善でなくてかつやりたいこと、を考えてみれば、その存在は明白である。悪は大体社会悪に通ずるので、最初の項を満たさず実行はできないが、善でも悪でもないこと、つまり、価値判断以前の行為はあるだろう。本能的な、寝たい、食べたい、セックスしたい、がそれである。それに付随して、好む行為があれば、それも当てはまる。僕は創作が価値判断以前によほど好きなんだと思う。

 ところで、善の感覚を排したとき、社会の役に立つ、というのは、生きる理由にはなりうるが、根本的には、つまり、ある限定的な状況下でしか、生きる目的にはなりえない。社会の役に立つのは他人との関係を保つ方便であり、他人と関係を保つのは生きるためである。他人と関係を保つのが好きだ、という反論の成り立つ人間は、この段落から退場してよい。他人がどうだ、というのもまったく考えられないほど切羽詰まって、ああ、死にたいと思った時、つまり、生きるのが前提でなくなったとき、他人と関係を保つ理由もなくなる。社会の役に立つ意味もなくなる。これでは目的になりえない。さて、生きる、という前提をなくしたときに目的にならなくなる事柄が、果たして根本的な生きる目的になりうるだろうか?生きるために社会の役に立つのであって、その逆は必ずしも成り立たないのである。

 その上で、さらに楽な生き方を求めるとすれば、それはやりたいことがそのまま社会の役に立つ、という状態である。簡単な結論に落ち着いた。

 楽な方へ楽な方へと流れちゃいないか、って?何がいけないんだ。楽な生き方ではいけない、というのが、すでに善の感覚だ。それに、既存の倫理や自分の中の倫理に従って生きるのも、大変楽な生き方だと思うぜ?倫理に反する、というのは、真面目な人間には結構苦しいと思うんだけど。

 

2015 2 9