わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

夢の旅人 第一回

(受験に身の入っていない身として、思想およびイメージを表明することは社会的責任の一端であるかと思い。思想は軽い書き物、重い書き物シリーズで書いているので、こちらではイメージを書き連ねようかと。それじゃ。)

 こういうのも悪くない、とも思っていた。頭のあちこちに電極をつなぎ、コンピューターにイメージを読み取ってもらう、これが最後かもしれない、そんなことを毎年呟いているが、毎年それは半ば冗談ではなく、リアリズムに富んだ表現であるのだが、誰にもわかりはしまい、無論僕にも――実際、人間になるのはとてつもなく難しいことなのだ、まともな、まともとはなんだろうか、と考えるのはヤボであり、まともであるという状態がすでに存在していて、とりあえずはそれを追認しなくてはならない――心電図のような画面が表示され、なにを意味するかはよくわからない、今年も僕は人間になれなかったようだ、ということだけが、画面を通して僕に理解される――最近は、自分の卑しさに嫌気が差している、哲学の崇高さというのは存在せず、少なくとも自分の考えていることには、それは哲学と呼べる類のものでもないのかもしれないのだが、それは現実の否認という点で単に現実に生きる人間からしたらまっこと卑しいものでしかない、そんな知っていたことを、反芻するように味わっては吐き気を催す楽しい遊びが最近の娯楽であり、そういえば、「哲学」によってすべてを破壊する建設的な遊びは自分の中の大黒柱をも破壊し、自分という家に致命傷を負わしめるという帰結をもたらした――もともと壊れて然るべきだったのだ、と思わなくもないが――発育が圧倒的に遅いのだ、時間に精神がついて行っていないのだ、さぞや自分は長生きするんだろう――夢というのはどうにも楽しい、現実でないから、夢の世界にも長居したら嫌気の差すものなのだろうか、僕は現実界の嫌気性細胞なのであって、夢に逃げるしか能がないのだと思いつつ、自己嫌悪の念というのも最近は弱まってきていて、良いことなのかいつか爆発するものなのか僕には判別がつかない、ただ結局無気力は自己嫌悪からきているものではないので現実に向かえるようになるかと言えばそんなことはない、というので、現実に生きる人間からしたら僕はさぞや麗しい夢の旅人なんだろ。