わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

軽い書き物

 どうにもズレている人がいる、とは我が母の弁。ズレている人間は、どうにも集団の中で生きづらく、浮いたり沈んだりしている。

 自分も、ズレている人間のひとりだと思っている(それを自称する気持ち悪さを感じつつ)。
 ズレている人間は、浮力に逆らったり、重力に逆らったり、とかく忙しい。他の人びとに合わせようとする努力は、しかし空しく終わる。大体、自然の摂理が勝ってしまう。
 だったらば、いっそ超然としてしまえば良いと思う。学園ドラマなどを見ていて思うのだ。根暗そうな生徒が、なにかマンガなどを書いている。それを、スクールカーストの上位を占める生徒に取り上げられ、取り返そうとしたりする。しかし僕は不思議に思う。僕はたぶん取り上げられても取り返そうともしないし、たぶんどこかで嬉々とさえしている。
 創作において超然とするのは、おそらくは「他人に認められたい」から、「認められたいけど、認められなくてもいーや」に変わるということではないか。ドラマで描かれるのは、カースト最下層で鬱屈としつつも、やはり他人に認めてほしい、そんな姿ではないだろうか。なんだか自分で自分を超然としていると称するのも気持ち悪いものだが、そんな感じだと思う。
 超然とするということは、自分の中の俗っぽさをひとつひとつ剥ぎ落していくということだ。それは、「超然としてるっぽい態度」を取ればいいというものでもない。「超然としてるっぽい態度」を取る俗っぽさ、というのも存在するからだ。うーん、難しい。

 

2015 1 29