わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

判官贔屓とTV(全文)

日本には、判官贔屓という言葉がある。
判官というのは源義経のことで、ついつい弱者の肩を持ってしまうことを指す言葉なのだが、国民性なのかなんなのか、自分のなかにもやはりそういった傾向を認めるので、なかなか不思議なものである。
しかし、一方でなんとなく疑問に感ずることもある。たとえば、同類の言葉に「弱きを助け強きをくじく」というのがあるが、別にくじかなくてもよかろうと。どうも「強者=悪」という前提が成り立ってしまっているようで非常に不思議である。政治家を叩けば良いと思っているマスコミも、「国民の側に立つ」という大義名分のもとに乱筆を奮っているわけだが、そもそも国民主権を標榜しているこの国家において国民が弱者であるはずがあるまい。本来政治家と国民が同じ土俵の上にあるのが民主主義であるはずなのになあ。強者は不憫なものである。
しかし、国民がほんとうにそのように政治家を叩いているかというと、そんなことはない。あり得ない話だが、マスコミが存在しなければ政治など興味のない国民が大半であるように思われる。
そもそも順序が転倒していると言えるのかもしれない。テレビをつけていると際限なく情報が流れ来るが、その中には明らかにこちらの求めていない情報まで含まれる。CMなどはその典型で、本来情報はこちらが求めて受け取るもののはずなのに、「悪意のある他者」によって影響を与えられちゃたまったもんじゃない。思想統制や洗脳というとだいぶ胡散臭い話が多くなるが、少なくともテレビが国民の意思決定に少なからず影響を与えているということは疑いようがないだろう。むしろ、強者というのはマスコミの皆さんのような気がするんだがなぁ。

 

2013 9 14