わたしはあなたのなんなのだ

あの記事この記事、なんの記事?散逸した記憶の集合体。ニヒリズムの立場から論ず。

紛らわしたくない憂鬱

だいたい、いわゆるメンヘラでなくたって、誰にでも憂鬱のひとつやふたつは襲ってくるものだ。世の人は、仮に憂鬱がやってきたとしても、日々それを紛らわして生きているのだと思う。しかし、僕は憂鬱を紛らわしたくないと思ってしまう。

憂鬱というのは当然純粋に不快な感覚であって、はやくそこから抜け出たいと思う。単純に考えれば、根本的な解決でなくともその場を紛らわしてしまう方がはやく抜け出せる気がする。しかし、根本的な解決をしないままでは、いずれぶり返すのではないか?しかも、解決されていないという不快感、引っかかりが残るという点では、短期的に見ても不快感は解決されていない。果たして紛らわすという行為は有効なのだろうか、と思ってしまう。

一方で、そもそもその憂鬱に根本的な解決は可能なのか、という問題もある。憂鬱の中には、つい最近の出来事のせいだとか、単に疲れているだけとか、しょうもない理由のものもたくさんある。それらは、解決しようたって、それこそ気を紛らわして忘れるか、いっそ眠ってしまう以外にやりようはない。そういうのにいちいちつきあって、ありもしない深い理由を考察したってますます疲れて憂鬱になるばかりである。
あるいは、書くと大層なことに見えるが、人生そのものに根ざした憂鬱であるとしたらどうだろう。将来への不安とか、死への恐怖とか、自己存在への疑問とか。だいたい字面ばかりが物騒で、現在の不安からはかけ離れていってしまうのが常だが、日常レベルでもこうした不安や憂鬱は襲ってくるものだと思っている。名前をつけるから大仰になるだけであって、こうした文学的な悩みは、普遍的だからこそ「文学」的たりうるわけで。
閑話休題。こうしたいわゆる「深い」憂鬱については、おそらく安易な解決以外に解決のしようがない。より本質的な解決はまさしく哲学的な解決になるわけで、はっきりいって大哲学者以外には無理である。世の人にはシンプルな悟りに至る方々も少なくないようだが、それは自分の信仰を作り出しているだけなんじゃないかと思っている。もちろん哲学だって論理を媒介にした一種の信仰には違いないけれども、彼らの「シンプルな悟り」というのは、シンプルであるが故に、いわゆる「大どんでん返し」を構想するものである。つまり、その「悟り」が世の森羅万象に適用できる、と思っている節があるが、単純に考えて、こんな末法の世に「大悟」に至る人物がそんなに続出するはずはない。おそらくそれらの大半は嘘である。とすると、彼らは、自分の作り出した信仰によって解釈できる物事しか見ないようになったのではないか。結局「例外」の憂鬱がやってきたときには、再び憂鬱に飲み込まれるか、それから目をそらすしかない。悟りの境地というのもだいぶ安楽なものではないらしい。

話が大いにそれてしまったが、憂鬱に対する根本的な解決はどのみち難しい、というかできないんじゃないか、という感じがある。それでもそうしたことに延々悩むとしたら、履き違えた真面目さを信仰しているか、ある種の偏執狂であることは間違いない。そう分かったところで事態は比較的何も解決しない。あるいはそうした終わりなき悩みが、個々の人間を使役してそれこそ文学やら絵画やら音楽やらを作り出しているのかもしれない。クリエイティブな人間を褒め称える文脈には結びつけられない。そうした悩みに従属する一個の奴隷に過ぎない。しかしそうした悩みを空想するのは人間ではないか。とすると僕は自分の影に怯えているようなものなのか。僕は未開の、遥か古代の類人猿なのかもしれない。それが、洞穴にあって、自分の影を見ているうちに、誇大妄想的に現代を夢見ているのかもしれない。古代の誇大妄想とはこりゃ滑稽。むしろ古代妄想か。お後がよろしいようで。

2015 9 21

sealdsに対する批判・懸念の一覧

【このページの使い方】
・sealdsの一員だと自認する人は、このページの批判や懸念を読んで、考えるなり自分の中で反論するなりして、現在のデモに関する考えを深めてください。見出ししか書いていませんから、気になったらリンクを辿って本文を読んでください。考えを深めて、デモをより適切な形にしてください。最も求められているのは、攻撃ではなく、内省です。
・sealdsがあまり好きでない人は、ざっと眺めて自分の好きでない理由がない、と思ったら、コメント欄にてその旨書いてください。どんどん追加していこうと思っています。ここに紹介されていないページについても、教えてくださると助かります。(既読のコメントは削除していきます)

出典の明確にあるものは示した。無いものは、2ちゃんねるTwitterなどから拾ってきた意見である。
私の意見として挙げたもの以外、私の賛否に関わらず挙げているので、予めご了承願いたい。
なお、出典から一部引用している場合があります。


から。
1.安保法案は「戦争法案」ではなく、レッテル貼りによる一方的な批判は慎むべきだ。
2.「絆が抑止力」というのは、外交の世界では成り立たない。綺麗事でしかない。
3.「反骨」な自分に酔っているだけではないか。感情論や精神論ばかりが先立つ主張は無意味。罵りは興醒めするばかり。

から。
1.sealdsはナショナリズム的であり、失望した。
2.国益重視の主張がみられるが、学生運動の本分ではない。
3.日本はすでに「侵略の反省を経て」「平和主義/自由民主主義を確立した」とあるが、そのような事実はない。彼らの無知と無自覚に「危惧」を感じる。
4.大事なのは、社会・労働問題について、これまでの歴史を真剣に考え、社会の底辺に目を向け、常に弱者の立場に立って物事を考えることだ。

から。
1.安保法案はこちらから戦争を仕掛ける法案ではない。
2.にもかかわらず戦争になると彼らが危惧するのは、攻めてくる国があるからである。
3.攻められたら守らなければならないが、抑止力を高めておけば攻められる可能性は低くなる。安保法案はそれを目指すもの。
4.この安保法案に反対するのも、攻められたら白旗あげて降参するというのも、どちらも利己的な態度ではないか。

から。
1.安保により日米の結びつきが増せば、中共への圧力も強くかけられる。中共の圧政下にある人々が勇気付けられる。
2.安保反対派が「中国の人たちとも話せば仲良くやっていける」と考えていることに違和感を感じる。彼らが見ているのは中共政府であって、その下の人々ではない。
3.本当に平和を願う精神があるならば、平和を脅かす中共にNOを突き付けるべきだ。
4.9条がこれから先も日本を守ってくれるわけではない。
5.例のハンストなど、日本で行われている安保反対デモは、民主主義国家だからこそ許される「ユルい」ものに感じられる。

から。
1.sealdsのHPの文章中にある、日本国が「侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した」というのは、日本国内でしか通用しない内向きの幻想に過ぎない。
2.そのうえで「東アジアの軍縮民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャル」が日本国にはあるとする、傲慢な独善性に、アジアの多くの人びとは当然反発し、身構えることは間違いない。
3.同じくsealdsのHPに掲げられている文章中の、「戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統」は実在しない。
4.民主主義の危機は今に始まった事ではなく、戦後民主主義の欺瞞に原因はあった。
5.sealdsはリベラル勢力の結集を求めているが、「日本の自由民主主義の伝統」なるものがアジアや沖縄からの問いかけを無視するものであるならば、それを「守る」ことが平和勢力の結集軸になるとは、とうてい考えられない。



総合(はたから見て)
・暴徒化、先鋭化はしないのだろうか。
・大学生が自然発生的に集まって出来た普遍的な運動ということになっていたが、本当は特定の思想を持った高校の同級生が核となってやっている、偏った運動なのではないか。
・デモをしている自分に酔っているだけなのではないか。
・sealdsは対案を出すべきである。対案など出す余地が無いと言うが、現に国際関係は緊張していて、現在の法制だけでは緊急事態に対処できない。事態が起こってからでは間に合わないので、平時から何かしらの法整備が必要なのではないか。
・なんでそんなに怒っているのかわからない。安倍さんも平和を目指して法改正を行うのだから良いではないか。

sealdsの思想について
・馬鹿が騒ぎたいだけにしか見えない。
・確たる論理がない。テレビでも論破されていた。あれで運動になっているのだろうか。
・安倍氏の主張も何も理解せずに、ただやみくもにやっているだけなのではないか。
・sealdsの人々は、「わからんでけっこう」という高飛車な態度を取ることが多くないか?
・sealdsの人々は時に賛成派の政治家や学者、特に安倍さんを「バカ」呼ばわりすることがあるが、果たして主張を正しく理解した上でのことだろうか。

デモはもはや逆効果?
・盛大にデモをしても、それが対話でない限り、政権に影響を及ぼすことはないのではないか。
・テレビに映る様子を見て、あるいは実際に行ってみて、嫌悪感を催す人も多い。
・sealdsの運動は同世代の指示をある程度得ることに成功したが、同時に大量のアンチを作った。彼らは政治に関心がなかったにもかかわらず、反sealdsをきっかけに左寄りの意見に嫌悪感を示している。

sealdsの運動は本気ではない?
・その場限りで、日常を賭した闘争の様相を呈していない。本気の運動ではない。
・警官に対する感謝や決められた規制線内でのデモなど、体制内運動でしかなく、根本的な解決をしようという気がない。

左翼運動のあり方について
・かつて新左翼運動で左翼は民衆の支持を失ったが、今回のデモでも同じ轍を踏んでいるのではないか。つまり、新左翼運動の反省の下にあるはずのsealdsの運動は、問題を解決できていないのではないか。
・怒りをデモで表現することで、怒りはある程度発散されてしまう。その怒りを別の策に向けるべきではないか。